2024/01/22

Idol in the screen tryna defend myself


「世の中バカばっかりで疲れません?」とは桃井かおりの名言だが
私もまたそれに同意したくなる日々を過ごしていた。
「なんでこんな簡単なことも分からないの?」と。
実際に相手へ言い放てば2秒でモラハラ認定を食らい血祭りの生け贄にされるところだが
そこまで私は迂闊ではない。心の中だけの不良性としてそっと蓄積させ、腐敗させ
赦しが芽吹く瞬間のための苗床にする。私は良くも悪くも、優しいから。

優しい人間が割を食う理由、それは、自分のためでなく
身近な者や大義にとって不都合となり得る真実を遮蔽できるからだと思う。
そして同じように、我が身可愛さだけで他人を貶め
周囲の品位すら下げかねぬ嘘を用いる人間を、即座に看破できるから。

「玄人のお人好しは、馬鹿もおんなじことぜよ」とは、映画 陽暉楼の台詞だが
私はいつまで経っても馬鹿のままである。私が虫唾が走るほど嫌っている「自己責任論」は
提唱者たち自らが凋落していくことによってようやく衰退の兆しをみせつつあるが
その反動なのか、他責思考を正当化せんとする勢力が台頭してきている流れも同時に感じる。

「私は悪くない。私のせいじゃない。私がこうなったのは誰々の・社会の敗北。」

なんとも陳腐で拡がりのない、豊かさとは縁遠いものの捉え方であろうか。
道化てはオモチャとなり、理解者然としてはサンドバッグとなり
澄ましてはアクセサリーとなる私にとっては、まったく別次元の価値観である。
百歩譲って、何者かの企みや、組織のシステムによって不利益を被ったとしても
私は、レジスタンスを示さず泣き寝入りするなどという選択はしない。
とりあえず一矢報いようと藻搔いてみるだろう。その結果がどう転ぶかはまた別として。

食事の際の「いただきます」はなんのために唱えているのか。
作り手への感謝、もちろんそれもあるだろう。だが根源にあるのは
食物となった命を「無駄死ににさせない」という弔いの心である。

話を始めのほうに戻すと、昨年半ばから、私なりの優しさの表現型のひとつとして
私を値踏みし雑に扱ってくる者、所謂「多くて疲れるバカ」に対して
徹底的に中指を突き立て、彼らの矛盾を詳らかにし、自己の正当性でなく
相手の欺瞞性を指摘してきた。これまでも同じようなことをやってきたが、どちらかといえば
優しさより、見せしめにする快楽に浸りたい欲望のほうが先行していた感は否めない。

動機が変わると、後味も変わる。長年の友人や、ただ無邪気に私を消費する者に
「私に対するその言動は私を不快にする、やめてほしい」とバッサリ斬るとき
なんとも言えぬ心地の悪い余韻が残るのだ。
美味しく食ってやったと満足げな内臓の中で蠢く食中毒菌にでもなった気分である。
当然、そんな危険因子はそばに置いておきたくない(いやお前らだろというツッコミは控えておく)
であろうから、彼らは私から離れ視界からも消えていくわけだが
「いただきます」・「ごちそうさま」を言われなかった食物に
もし人格が宿ったとしたら、こんな気持ちになるのだろうかと想像する。

「そんなことばっかやってたら、孤独になっちゃうよ」と、味方を失った者が
負け惜しみのように吐き捨ててくる。ほう。上等じゃない。
私は孤独がどんなものか、よく知っている。味方を失う程度などでは全然足りない。
孤独とは、誰にも打ち明けることなく墓場まで持っていく秘密だ。
そして、そんな素振りなど微塵も見せず、静かにたたえる微笑みである。
ご指摘いただかなくとも、とっくに大親友ですよ、孤独とは。

ひとりぼっちになる程度のことを孤独と恐れて他人に脅迫までするような者は
百年の孤独でも水割りにしてちびちび啜り、悦に入っているがいい。

それがお似合いだ。




Shine on you.