2025/02/26

先生なんかじゃない

  
 猫の里親になって2週間が経った。
 覚悟していた「ほんとうの親じゃないくせに!」ばりの拒絶は杞憂に終わり、仰向けでベッドの上を転げ回り、同じ時間に眠りに落ちている。よっぽど前の家での暮らしがちゃんとしていたのだろう。お育ちのいい子は、人間も動物も素直だ。捻くれていない。私のような屈折した人間は、こういった種族のイノセンスに惹かれる。私になかったものをはじめから持っているから。

 そして同じように、サブスクリプションコンテンツで宣言していた外科手術も、無事に成功した。
 この醜い世界では、見栄えを良くすると身分の扱いも正比例的に良くなるので、俗世間的な「幸せな暮らし」を享受するためには、健康な身体にメスを入れることはもはや必要悪ですらあると言える。見てくれを商売道具にしなくても済むような隠居生活にとっとと切り替えてしまいたいところだが、私にはまだすべきことがある。それを成し遂げるのが先か、膚が水を弾かなくなるのが先か。神のみぞ知る、といったところか。

 どんな話題でも言えることだが、諦めたものを犠牲だと思っているうちは、求るものがいくら手中に収まろうとも、その心は空虚なままだろう。
 例えば、私は猫を迎えるにあたり、趣味である香を諦めたが、かといってそれを欠乏だとも、ましてや犠牲を払ったとも思っていない。「これだけの犠牲を払ったのに、なにも報われない」ありがちなフレーズだが、あなたね、生贄で神の荒ぶりを鎮める儀式じゃないんだから。受動的恩着せがましさ、というか、与奪のセンスに恵まれていないなと、そういった台詞を耳にするたび、絶望的な気分になる。

 エイミー・ワインハウスという歌手を思い出す。
天然の温かいハスキーボイスで哀愁たっぷりに歌う彼女の歌唱は上手いだけではなく、聴き入ってしまう。若くして名声と富そして注目を得た彼女は、薬物の過剰摂取によって27歳でこの世を去ってしまったわけだが、彼女のドキュメンタリー映画を観ていて、「ああ、彼女がほんとうに欲しかったものは、お金でも有名になることでもなく、ましてや周囲が求める曲を歌い続けることでもなく、心を許せる人たちとの安らかな日々だったんだな」と、心に響くものがあった。流れとして外せぬ歌わねばならない曲と、自ら進んで選びバンドとアイコンタクトだけでやりとりして歌っている曲とで、聴こえ方がまるで違うからだ。
 大衆が彼女に求めたのは「無頼なユダヤ人の歌姫」という偶像だったが、彼女はそれに応えるために費やした労力を、犠牲であると、有限のものをすり減らしたと、感じてしまったのかも知れない。そこにある揺るがぬ歌声だけは、確かなリアリティとして今もなお、そしてこれからも、聴き継がれ色褪せないだろう。

 どんな人の心にも、空隙は存在する。
 私のような生業の者はそれを察知するのが得意、というか、それができなきゃ仕事にならない。善なる使い方をすればフィクサー、悪用すれば詐欺師という諸刃の剣。この能力を自分だけでなく他人にも使おうと決めたら、その瞬間から、毎日毎秒、己の良心と向き合わなくてはならない。それは占い師・術師としてのさだめであると甘受しているが、ときたま、趣味感覚でタロットカードや星占いを齧っている人から、私と同じ目線で話を展開されると、戸惑ってしまう。
 私に言わせれば、占い師など、他人の運命を覗き見て口出しして、剰えそれを操り改変まで試みるような卑しい身分である。占術をエンターテインメント的に利用するまで身を落としてはいないが、罷り間違っても「先生」などと呼ばれる立場ではない。私の役割は、占術の理論に則り相談者の願望を現実に反映させる下地を作ることであって、手品やイリュージョンのような目眩しではない。ゆえに、「すごーい!当たってるー」というような的中体験は、目的ではなく過程なのである。
  "当たる占い師"という宣伝文句があるけれども、占術理論的におかしいというか、ふつーにやってりゃ当たるのは当然なんです(笑)。だって具体的な戦略を練らねばならぬのはその次のステップなんだもん。手品ですらプレッジ・ターン・プレステージュと3段落ちがあるというのに!?タロットはカードめくって説明書読んで、星占いは太陽星座だけで合う合わない言って終わり!?飲み屋のつまみ話じゃん!!
こちとら、ン万もする書物読んで知識つけたり、大家の勉強会行って技盗んだりしてるのよ?ばっかみたい。

 私は、自分の仕事について密着ドキュメンタリーのように語るのは好きではないが、そういう人たちからカードの切り方やリーディングのコツなどを訊かれるたびに、素人さんのお戯れは楽しそうでおよろしいことざますね、と思いつつ回答していたらそれこそ、黙ってりゃいい気になって、己が特別な人間にでもなったかのように振る舞い始める人が散見されたので、「占いができる自分、に酔ってるうちは三流だし相手にも失礼になるよ」と忠告したら、疎遠になってしまった。まあ図星だったか、そして占術や相談者への向き合い方も、中学生のこっくりさんやティーン雑誌に載っている相性占いをキャッキャと眺める程度の感覚だったのかも知れない。私が「伝える形容詞ひとつ、助詞ひとつ間違えたら、この相談者に真意が伝わらないのではないか」などと気を揉んでいる横でそれをやられるのは、なかなかにもどかしいというか、やるならやるでプロらしく振る舞い、遊びなら遊びで一線を越えず弁えてほしいものである。

 と、たまにはと思ってピシャリと書いてみた。まあ、私も私でお人好しすぎるから付け込まれちゃうんだろう、その認識はある。
でも、私なりに真剣に取り組んでいることを、遊び感覚の人と同列にされるのは、さすがに失礼ではないか。マイクロアグレッション、自覚のない差別ってこういうことなんだろうなと思う。

 まあ、べつに私の目的とは関係ないことなのだが。気の良いもんではない。




Shine on you.

2025/02/12

眠れる獅子の徐派


 あらゆる邪気を振り切るため一切を事後報告とする、ということで、以下の文章は2月4日から前日にかけて記されたものであることを、予めご了承いただきたい。

 私とソーシャルメディアで繋がっている方々ならお分かりのことと思うが、去年一昨年あたりからずっと「猫を飼いたい」と発言してきた。去年からは特に猫種まで指定して、願いを口にしてきた。少々遠回りになったものの、それが叶う算段が整った。こういうあたり、私は腐っても魔術師である。

 もっと昔から私と繋がりのある方は、私が特定の名前を呼び続ける夢見を経験しているのをご存知のことだろう。
 さみしさに似た喜びに包まれた温かい場所で、愛すべきものの名を口にする自分の声。明確にその名が判明したのは去年の10月だが、その日の投稿はいまでも消さずに残している。今回、里親として迎えることになった猫の名であったからだ。その夢を見始めたのは、ちょうど新宿二丁目にバーを構えた時期なのだが、その猫は2016年生まれ。私の中で、点と点が線になっていくような感覚をおぼえた。夢は日に日に明瞭になり、その結末まで見届けてから覚醒するまでになった。

 予知夢なる概念を的中率という側面から語るならば、私は黙して堅固、なにも語らずこのさみしさに似た喜びの赴くがままに、生きるべきなのだろう。

 無自覚に人の士気を下げるというか、水を差して興醒めさせる類の人間がいる。
シラフとトランスの狭間で常に生き、それでいて飄々としている私のような人間にとって彼らは、「否定的な顕在意識」として機能するのだろう。本人たちの自覚の有無など知ったことではないが、傍から見ていれば「どうしてそうも他人の幸福を素直に喜べないのかねえ!?」と耳を疑ってしまうような言葉を、歓喜に火照った心へ冷や水を浴びせるかのように、言い放つ。往々にして彼らには「悪意」というものがない、いやそれ以前に、「言葉には感情が宿る」という概念をそもそも理解していない。おそらく脳の器質も関係しているのだろうが、「言葉を文字通りにしか解釈できない人たち」といったところか。平易に使いたくはないが、言霊と呼ばれるような考え方とは無縁なタイプ。そういう人間は、他人の顕在意識のダミーになりやすい。集団心理と呼ばれるものもその一種であろう。

 こんなことを言われた!腹が立つ!!なんて、我がサンクチュアリであるこのサイトで展開する気などないし、「人の気も知らないで(笑)」と俯瞰的に流せる程度にはオトナの対応とやらも身につけたつもりだ。えらいぞ、男33歳。
 怒りに繋がる前段階の「イラッ」で大抵の戯言は霧散していくのだが、私は知的好奇心から、「どうしてそういうことを言うの?」と相手を問い詰めて反応を見てみたくなる。私の愛を試したんだから、私だってあなたの思考回路を試しますよ、これでおあいこ。という、私の悪癖のひとつだ。どのみち、薄ぼんやりとした私の顕在意識の一面として刹那的に描画されている人格と向き合うのは、マインドフルネスのひとつの発展形としては、やっている内容は大して変わらないのだから、見知らぬ他人から私の知らない私を見出す瞬間には、心躍るものがある。しかしほとんどは、攻殻機動隊でいうところの「ゴーストハッキングされた者たち」でしかないから、投げかけるクエスチョンも、叩きつけるエクスクラメーションも、ただ虚に消えるのみだ。

 先述の通り、私を攻撃してくる際の彼らは、言葉が不自由である。どの類の不自由さかというと、文字は読めても行間が読めないタイプ。社交辞令を間に受けたり、ジョークが通じなかったりする人たちだ。「社会」という言葉に壮大なシステマティックを感じるのか、マクロの集合体を意識するのかといった解釈のずれはさておき、言外の意味に重きを置く日本語でやり合う舌戦において、彼らを相手にするのなら、かなり悲惨な末路を覚悟せねばならない。彼らは私と対峙する時だけそうなるのか、生来の、精神性の高い人へ依存する性質が言語感覚を鈍麻させていくのかは、正直知ったこっちゃないが、彼らの、無邪気に放つ一言が相手を失望させ、知らず知らずのうちに孤立していく様を見るのは、ある意味気の毒でもある。

 ひとりで踊る、醜い操り人形。

 これはあくまで自論だが、どんなに無神論や無宗教を自覚し強調する人にも、心の拠り所がある。それは美しく神聖に、その人の心の中へ根付いている。美徳(virtue)とでも言い換えるべきか。ネアンデルタール人より脳の小さい私たちホモ・サピエンスが生き残ったのは、この「美」の感覚が備わっていたからだといわれている。

 私は、信念をそっと支えてくれる人と、大義名分を盾にそれを挫こうとしてくる人の区別を明確に知った。ショックだったし、不安に苛まれて多少落ち込んだりもしていたが、実際、いま、現実世界の私は、ベッドでくつろぐ猫を横目にこの文章を入力している。私はこの猫に、果たされることのなかった愛情を注ぐのだろう。あの夢の結末を、頭の片隅に思い描きながら。


探していた温もり
静かに さみしさに似た喜びが 胸を打つ


獅子座の子と、獅子座の満月に。






















Shine on you.






2025/01/08

Inner world dreaming story untold

 
 ここのところ、いわゆる告発が頻発しているように見受けられる。
告発というより、「必要悪の無効が顕在化しつつある」とでもいうべきか。大物芸能人からの性被害を、口止め料を受け取ったにも関わらず告発した女性の事案が記憶に新しい。こういった業界の末席にしれっと身を置く者としては、特別扱いの見返りに有限の何かの提供を要求されるとか、面倒な騒ぎが起きる前に金で解決を試みるとかなどは、よく聞く話であるから正直それ自体に驚くことはないが、素人さんに及び知られてしまうレイヤーにまで話が上がってきてしまう時代になったのかと、そちらのほうに関心を持っていかれる。暴露系配信者が1ジャンルを形成するくらいであるから、やはり一定の潜在需要もあったのだろうが、私は単純に、よく消されないな、と思ってしまう。それはもう、文字通りの意味で。

 語られてこなかった事実が白日の下に晒される。ある者にとっては痛快な勧善懲悪活劇の延長に感じられ、ある者は当事者のそれまでの沈黙の苦痛を思い涙し、ある者はただそこに別の意図や作為を見出す。
 占星術の話に置き換えると、現在の世相は「集団心理の抽出」から「個としての統一」への過渡期であるといえる。争ってばかりもいられないんだけど、争いの中でしか救われぬ魂もあるよね、という悲しい物語の中では、誰だって我が身が可愛い。個として成立することの尊さは、裏を返せば「自分さえ良ければそれでいい」という卑しさとの紙一重というわけだ。去年の中頃からうねりを見せ始めた見慣れぬ流れは本年、加速度的に可視化されていくだろう。求むる未来が定まっている者はその青写真を手にし、そうでない者は、撮り直しの効くスピード写真のように、延々と奇跡の一枚を待つだけの期間となる。それをボーナスタイムと捉えるか、執行猶予と解釈するのかは、私の預かり知るところではないが。

 「◯◯っぽさ」はときとして枷となる。
しかしカポエイラのように、枷ありきで豊かに発展する技もある。自由は制約のなかで輝きを増し、それはやがて、制約がもたらす陰をも相殺し得る。

 陰に呑まれぬためには、光に眩まぬためには、大衆という名の圧力に埋もれぬためには、これだけは負けぬという、自分だけの必殺技を見つけるのです。




Shine on you.

2025/01/03

time is gone behind victories


 毎年のように言っている気がするが、年が明けた実感がない。
もともと暦へ無頓着な性質に相まって、占い師なんぞになったら春分が1年の区切りと考えるようになる。初詣だおみくじだ挨拶回りだ、突き詰めていけば現世利益の追求でしかない。私は家で横になって本でも読んでいるほうが心が安らぐ。さすがにお世話になった方への挨拶回りは重要であるから、昨日済ませはしたが。世俗との関わりは適度な距離感でいこうと考えている。

 とはいえ今年の「新年感の欠落」は私の性分以外の要素も大きい。
ヘアカット・美容医療・タトゥー・心理カウンセリング。セルフメンテナンス予約を年末年始に一気に放り込んだのだ。私は今年、西洋占星術でいうところの太陽期から火星期への移行期間に入る。太陽は平たくいうと自己の確立。まあ、14年かけてネットの藻屑から「加賀優作」を作り上げたのは一応ミッションコンプリートといった感じではあるが、もうひと仕上げ。誰のためでもない、自分のために。というより、誰かのために自分を曲げていた己へのけじめをつけるのだ。

 気楽に過ごす、ということにずっと後ろめたさを覚えていた。
どこか受難的に生きるほうが、様になると思い込んでいたし、片意地を張らないことと怠惰に流されることの区別がついていなかったのかもしれない。そんな日々にセイグッバイグッドメモリーズ。

 寂しさに似た喜びを感じながら、私はひとつずつ優しくなる。

今年もよろしくね。




Shine on you.