いま私は済まして日々を送り、剰えやれ表情ジワが気になるだの肌の粗をどうにかしたいだのと
平和ボケした貌の見てくれを取り繕うことに執着していられているが
悪い国へ金を流したくない、となったら、その国の会社の機器や製剤は選択肢から外さなければならない。
モフィウス8(めっちゃやりたかったー!くそぅ)、ステラM22、インモード、ルメッカ、このあたりの流行機器は壊滅。
美を諦めることで醜い争いへ加担せずに済むなんて、皮肉な話である。
私が大人気ないだけなのか、スポーツに政治が絡むのも興醒めしてしまう。
開催中のサッカーW杯での一件など、もはやボールを介した代理戦争の様相だ。
フィギュアスケート鑑賞から足を洗ったのも、国の威信めいたものや企業の利権争いを背負わされた少年少女があまりにも不憫で見ていられなくなったからだ。
こんなに期待されることを嫌うのは、私自身にも似たような経験があるからだと思う。
私に期待を抱いてくれる人を悪者扱いするつもりはないが、期待に背く結果が出たら「なんて不甲斐ない人間なんだ」と自分を責めるし、期待に応えられても「誰かの駒として機能するしか価値がないんだ」と、これまた自分を責める。自罰癖は治らないにしろ、やはり私は放っておいてくれる人、黙って見守ってくれる人がいちばん好きだ。そういいながら、私は愛猫の一挙手一投足を把握したがり、そっちよりこっちのほうがいいはずと手出しを試みてしまう。この猫も同じ気持ちなのかもと気づくとき、私は自分の傲慢さに嫌気が差す。
そして同じように、傲慢さこそが人間の人間たる所以なのかもしれないとも思う。
神や仏のように振る舞えなくて泣いてしまうほどに。
ときに、ボツリヌストキシン製剤治療を始めて、なんだかんだで10年目に突入した。
コツコツ続けていくいわゆる「ちりつも治療」だが、10年もやるとさすがに周りとの差が目に見えてきたなと感じる。
不機嫌な表情を見せまいとする見栄から始めたものが、いまや、私の叶わぬ夢を間接的に満たす代替治療となっている。
日記やら丁寧な暮らしのような自己満足的な習慣は続かないけれども、基礎美容やボディメイクといった、食い扶持に直結するルーティンは意地でも続けようとする。
要するに私は、誰よりも生き汚いのだ。キレイのためならこの手を穢すことも厭わない、と。
目的がなくても美しくあって許されるのは自然だけだと考えている。
人間くんだりが美しさを追求するのなら、その美をもって如何とす、まで予見せねばならないはず、そうあってほしい。
鏡は悟りの具にあらず、迷いの具なり。
Shine on you.