猫の里親になって2週間が経った。
覚悟していた「ほんとうの親じゃないくせに!」ばりの拒絶は杞憂に終わり、仰向けでベッドの上を転げ回り、同じ時間に眠りに落ちている。よっぽど前の家での暮らしがちゃんとしていたのだろう。お育ちのいい子は、人間も動物も素直だ。捻くれていない。私のような屈折した人間は、こういった種族のイノセンスに惹かれる。私になかったものをはじめから持っているから。
そして同じように、サブスクリプションコンテンツで宣言していた外科手術も、無事に成功した。
この醜い世界では、見栄えを良くすると身分の扱いも正比例的に良くなるので、俗世間的な「幸せな暮らし」を享受するためには、健康な身体にメスを入れることはもはや必要悪ですらあると言える。見てくれを商売道具にしなくても済むような隠居生活にとっとと切り替えてしまいたいところだが、私にはまだすべきことがある。それを成し遂げるのが先か、膚が水を弾かなくなるのが先か。神のみぞ知る、といったところか。
どんな話題でも言えることだが、諦めたものを犠牲だと思っているうちは、求るものがいくら手中に収まろうとも、その心は空虚なままだろう。
例えば、私は猫を迎えるにあたり、趣味である香を諦めたが、かといってそれを欠乏だとも、ましてや犠牲を払ったとも思っていない。「これだけの犠牲を払ったのに、なにも報われない」ありがちなフレーズだが、あなたね、生贄で神の荒ぶりを鎮める儀式じゃないんだから。受動的恩着せがましさ、というか、与奪のセンスに恵まれていないなと、そういった台詞を耳にするたび、絶望的な気分になる。
エイミー・ワインハウスという歌手を思い出す。
天然の温かいハスキーボイスで哀愁たっぷりに歌う彼女の歌唱は上手いだけではなく、聴き入ってしまう。若くして名声と富そして注目を得た彼女は、薬物の過剰摂取によって27歳でこの世を去ってしまったわけだが、彼女のドキュメンタリー映画を観ていて、「ああ、彼女がほんとうに欲しかったものは、お金でも有名になることでもなく、ましてや周囲が求める曲を歌い続けることでもなく、心を許せる人たちとの安らかな日々だったんだな」と、心に響くものがあった。流れとして外せぬ歌わねばならない曲と、自ら進んで選びバンドとアイコンタクトだけでやりとりして歌っている曲とで、聴こえ方がまるで違うからだ。
大衆が彼女に求めたのは「無頼なユダヤ人の歌姫」という偶像だったが、彼女はそれに応えるために費やした労力を、犠牲であると、有限のものをすり減らしたと、感じてしまったのかも知れない。そこにある揺るがぬ歌声だけは、確かなリアリティとして今もなお、そしてこれからも、聴き継がれ色褪せないだろう。
どんな人の心にも、空隙は存在する。
私のような生業の者はそれを察知するのが得意、というか、それができなきゃ仕事にならない。善なる使い方をすればフィクサー、悪用すれば詐欺師という諸刃の剣。この能力を自分だけでなく他人にも使おうと決めたら、その瞬間から、毎日毎秒、己の良心と向き合わなくてはならない。それは占い師・術師としてのさだめであると甘受しているが、ときたま、趣味感覚でタロットカードや星占いを齧っている人から、私と同じ目線で話を展開されると、戸惑ってしまう。
私に言わせれば、占い師など、他人の運命を覗き見て口出しして、剰えそれを操り改変まで試みるような卑しい身分である。占術をエンターテインメント的に利用するまで身を落としてはいないが、罷り間違っても「先生」などと呼ばれる立場ではない。私の役割は、占術の理論に則り相談者の願望を現実に反映させる下地を作ることであって、手品やイリュージョンのような目眩しではない。ゆえに、「すごーい!当たってるー」というような的中体験は、目的ではなく過程なのである。
"当たる占い師"という宣伝文句があるけれども、占術理論的におかしいというか、ふつーにやってりゃ当たるのは当然なんです(笑)。だって具体的な戦略を練らねばならぬのはその次のステップなんだもん。手品ですらプレッジ・ターン・プレステージュと3段落ちがあるというのに!?タロットはカードめくって説明書読んで、星占いは太陽星座だけで合う合わない言って終わり!?飲み屋のつまみ話じゃん!!
こちとら、ン万もする書物読んで知識つけたり、大家の勉強会行って技盗んだりしてるのよ?ばっかみたい。
私は、自分の仕事について密着ドキュメンタリーのように語るのは好きではないが、そういう人たちからカードの切り方やリーディングのコツなどを訊かれるたびに、素人さんのお戯れは楽しそうでおよろしいことざますね、と思いつつ回答していたらそれこそ、黙ってりゃいい気になって、己が特別な人間にでもなったかのように振る舞い始める人が散見されたので、「占いができる自分、に酔ってるうちは三流だし相手にも失礼になるよ」と忠告したら、疎遠になってしまった。まあ図星だったか、そして占術や相談者への向き合い方も、中学生のこっくりさんやティーン雑誌に載っている相性占いをキャッキャと眺める程度の感覚だったのかも知れない。私が「伝える形容詞ひとつ、助詞ひとつ間違えたら、この相談者に真意が伝わらないのではないか」などと気を揉んでいる横でそれをやられるのは、なかなかにもどかしいというか、やるならやるでプロらしく振る舞い、遊びなら遊びで一線を越えず弁えてほしいものである。
と、たまにはと思ってピシャリと書いてみた。まあ、私も私でお人好しすぎるから付け込まれちゃうんだろう、その認識はある。
でも、私なりに真剣に取り組んでいることを、遊び感覚の人と同列にされるのは、さすがに失礼ではないか。マイクロアグレッション、自覚のない差別ってこういうことなんだろうなと思う。
まあ、べつに私の目的とは関係ないことなのだが。気の良いもんではない。
Shine on you.