2024/12/29
Decorate Myself
2024/12/22
Alien(Not Alone)
2024/12/08
ハート型に収まらぬ愛
2024/11/30
ダウンタイムは最高の内省時間
2024/10/17
connecting the dots, and the circle is complete
去年はフィクサー役に徹するかのような年だった。人と人の縁を結び、あるいは引き離し、自分の見栄など二の次にしていた。ただあらゆる場面において、そこに「きっかけ」という名の点を置くという作業だけは愚直に遂行した。月下美人の言い伝えのように、点には、繋がるタイミングと、ただそれを待つだけの時期がある。私はひたすら待ち、ときには促し、やがてその瞬間がきた。
アジア最大規模を誇るこの催しは、20万人もの同志が一堂に会し、マイノリティとしての権利を主張し、そして祝う。人に見せるほうのキャリアにおいて、これはひとつの集大成であると言えるだろう。素人投稿の延長で小金稼ぎをしているような連中とは違う立場なのだと認められ、私の貫いてきたエロスの在りかたが評価されたのだから。人の金で旅行だひゃっほーい、なんてお気楽な話ではなく(まあ正直かなり嬉しいが)、私にとって重要な意味を持つ滞在になるだろう。
人を見るほう、占い師のキャリアにおいても、このように運を精製し手繰り寄せ、求むる現実を創りあげるさまを示せたのは、「占いや魔術は、単なるエンターテインメントではなく、人生をより良くする選択肢たり得る」ということを、この身をもって証明できた気がして、感慨深い。当たってるすごーい、なんて、AIにでもやらせておけばいいのだ。
加賀優作
Shine on you
2024/09/24
decade, just decade
きょうびのコンピュータは、動画編集だのオンラインゲームだのと、よっぽどの処理を求めない限り、昔とそんなに変わらない。もちろん、ある一定のスペックを満たせば、の話だが。Windows7のZenbookだったかな。2回の修理を経てMacに乗り換える2019年まで現役だった。多窓癖のある私の酷使によく耐えた子だと思う。現役バリバリに稼働していた2014, 5年あたりは、風俗のシフトをほとんどゼロに減らして、占い館で受付とパワーストーンアクセサリー制作をしつつ、ゲイバーでバイトをしていた時期だ。労働というシステムにそもそも私が向いていないと気づくのはもっともっと先の話だが、いわゆる「昼職」というやつが持つ、縦にも横にも斜めにも、それこそ縦横無尽なしがらみにうんざりしていた。まあ、いわゆるブラック企業だったというのもあるが、それを差し引いても、朝7時に起きて1時間満員電車に揺られ、占い師さんたちの予約管理とアクセサリー制作を同時並行で進め、社長からは笑ってしまうようなパワハラを受け、引き継ぎもそこそこに先輩はどんどん辞めていき、同期は占いの心得も石の知識もなく、彼らが残した業務をやっつけるために残業をすれば、帰り際には定刻で切られているタイムカードを見て絶望し、その足でゲイバーのカウンターに立ち、怒りとも憤りともつかぬ感情たちを、酒を触媒に笑いへ昇華させ、酩酊で朦朧としたまま、また1時間地下鉄の旅。ここまでやって、手取りは雀の涙。ブラック企業の救いは高給、これ一点にあると思っていたのに、とんだ見込み違いだった。
ここまで読んでいただたいた聡明な読者諸氏ならお気づきのことと思うが、私はマルチタスクというやつが非常に得意だ。
まったく別の作業を同時並行的に、その質を落とすことなく進めることができる。とはいえまあ、機械と一緒である。どんなにハイスペックであろうとそのぶんの消費電力、この場合は体力か精神力か、いずれにしても疲れるわけだ。決して、自らの脳の情報処理能力の高さを誇示したいわけではない。そうでもしなければ、私は私を維持できなかったのだ。単に、生存戦略的に適応し続けた結果である。まあそのお陰で良い思いを一度もしなかったと言えば嘘になるが。これをしつつあれも忘れてはならぬと、3ヶ月で資金繰りから物件決め・内装工事・各種根回しや挨拶回りを済ませ自分のゲイバーを開店させたのも、おそらくその好例だろう。こういった手際は、傍から見たら鮮やかに映るのだろう、出資者は錬金術でも見たかのように目を白黒させて驚いていた。普通なら、バーをオープンさせるのには半年から一年はみないといけないのだから。しかし彼は、契約時私に提示してきた「出資者の存在は誰にも明かさない」という唯一の約束を「あの店は俺が出させてやった」と他店で(しかも私の古巣で!)宣い、自ら反故にして私の信用をすべて失った。いまは脱サラしてタイでホテル経営かなにかをやっているようだが、私は彼を一生許さない人リストの筆頭に書き記している。枕営業でもやったのかとか、パトロンが裏にいるから余裕だねとか、好き勝手言われ放題でも黙して堅固を貫く私を尻目に、彼奴は温暖なタイでシンハーでも飲みながら私の「有能さ」を愉しんでいたのだろうか。そう思うといまでも腑が煮え繰り返るようだ。まじないをかけて不幸を願う労力すら惜しいほど見下げ果てた人間だが、彼から唯一学んだことは、人の顔を潰すような真似は、それなりの覚悟をもってやるべきだということであろう。
話が逸れてしまったが、奇しくも、ラップトップを買い替えるタイミングと人生の景色がクロスオーバーしているような気がして、これを書き始めたのだ。
私はいま、占い館の受付係から占い師となり、パワーストーン制作どころか魔術までもおこなうようになった。身体を売っている感覚でしかなかったエスコート業は、時間を買っていただいているという考えに変わり、他人から性的な目線を向けられるのを恐れていた私はもう、どこにもいない。他人が金を払ってでも欲しがるものを私は生まれながら持っているのにも関わらず、それを活かしもしないで剰え疎ましく思うなんて、宝の持ち腐れだし、単純に、愚かだ。己の人生に対して注意散漫な者はするりと、まるでそれが正義の鉄槌かのように言い放つ、「お前は何も変わっていない」と。けれども、私はあまり気にしないというか、私を貶める切り札としては少々効力がないように感じる。どうぞ、あなたみたいな人は、激動の時代に呑まれて変わってしまっていけばいいじゃない。その暁には、「何も変わっていない私」が、もはや原型もとどめぬあなたを、あなただと認知して差し上げますよ。そんなことを、口にはしないまでも、頭の片隅のサンクチュアリに抱いている。
マルチタスクは内側でだって、できるのだから。憐憫の、別の呼び名として。
2024/09/15
この文化、DNRですッ!
(本文は2024年1月25日に会員限定コンテンツPatreonへ投稿したコラムを転載したものです。)
満月前になると、過去の出来事をよく思い出す。
思い出すというか、自分の意思とは関係なくプレイバック再生されてしまう、と表現したほうが適切かもしれない。こういう生業で生きていると、時折こうして、脳の誤作動が起こる。さっき蘇った記憶は、一昨年の冬ごろに一度だけ肌を合わせた男とのピロートークだ。なぜかその時期はお盛んというか、自らの技術に自信を失い、周囲に蔓延るマスキュリズムへ迎合せねばと不安に駆られていた時期で、不自由な思考回路に陥っていたのかもしれない。真っ黒ではないがグレーな歴史である。相手は、まあ、ゲイの理想型を模した似姿のような、どこぞの飲み屋で画像片手に自慢話でもすれば五、六分程度は座を支配できるような見てくれだったのだが、正直、いっときの空しさが埋められるのであれば誰でもよかったから、相手のヴィジュアル由来の昂りというのは、まったくなかった。マッチングアプリで募集をかけたら応答がきたので会った、ただそれだけの話である。内容は笑ってしまうほど散々で、まあ、ゲイタウンを根城にしている男にありがちな「相手でマスターベーションをするセックス」しか知らない類といったところか。エクスタシーはおろか安心感すら抱けぬまま、またつまらぬ者に身体を許してしまった......と後悔しつつ、やおら始まった独白に耳を傾けていたわけだが、彼の持論がなかなか興味深かったので紹介しておく。
「ボス猿みたいに、俺より男らしい人には攻められたいが、そうでない者には攻めに回りたい」
要するに、「俺はお前より上・お前は俺より下」と。ほう、これはこれは。また拗らせた男性性をひけらかしちゃって。私は生まれたままの姿で、失笑を堪えながら相槌を打つのがやっとであった。なんなら、ちょっとした腹筋運動すらできていたかもしれない。この人はテクでもトークでも意表を突く笑いをくれる。やはり、笑いは唯一の救いだ。だって、行動も論理もちぐはぐなのに、私は最後までこの人の独演に付き合えたのだから。
まず、そもそも、きょうび、霊長類の研究分野において「ボス猿」という言葉は死語に等しく、彼の主張したいメイン箇所であろう最も偉いオス猿は「第1位オス」や「アルファオス」と表現されている。そして、オスは育った群れの中に骨を埋めることはなく、約3年の周期で別の群れへと移動を繰り返す。すべてのオスがアルファオスになったりそれを目指すわけではなく、順位は変動こそすれ、基本的には実力順というよりむしろ年功序列方式だ。ポイントは、同じ群れを維持しながら一生を過ごし、多数のオスと交尾をするのは、メス猿。つまり、彼の論理で話を進めていくと、彼自身のとっている行動は、悲しいかな、限りなく「メス的」である、ということになってしまうわけだ。残念でした。
なにもわざわざ、猿の社会構造などを持ち出さなくとも、「強きには屈し、弱きには大きく出る」という姿勢を、なんの疑問も抱くことなくしたり顔で喧伝できてしまう時点で、誤解を恐れぬ表現をあえて使うことを女性読者各位にはご容赦いただきたいが、私からすれば「女々しいオカマ野郎」としか思えず、セックスをするためだけに特化させた家具配置のアパートで、「自らがいかに男らしいか論」を意気揚々と、格下であると認定したはずの私に説くさまは、なんとも哀れ(だって、その理論の正当性を担保させるのなら、自分より格上の男を説き伏せるべきでしょう?)というか、日本のゲイ文化の轍を創ってくださった先人たちには申し訳ないが、現行のゲイ文化と実社会の価値観、双方の致命的な乖離を実感せざるを得なかった。
単純な疑問である: この人たちはあと何年、こんなことをやり続けるのだろうか?
私などは早々に、この文化に踊らされるLのプレイヤー(player)からドロップアウトして、清濁がギリギリの秩序で拮抗することを願うRのプレイヤー(prayer)に移行したわけだけれども、この人たちは自己矛盾に疲れることがない。あるいは、そのように見えるだけで、うすうす勘付きながらも今更抜け出せないのか。その煮え切らなさが、ときどき羨ましくさえ思える。例を挙げだせばキリがないが、膚に瑞々しさを求めながら日焼けをし光老化を促し続ける、「オネエっぽく思われたくない」という恐れからくる不自然に強調された粗野な言動、「大切な人といつまでも一緒に」などと夢見る夢子節を嘯きながら健康寿命を縮める悪習慣(肥満・喫煙・飲酒、あるいは違法薬物使用)を改善しない、性的に求められたいがためにタンパク同化ステロイドを用いた結果、勃起不全や女性化乳房を併発し、それをカバーしようと勃起薬や抗ホルモン剤に頼り、さらに内臓を傷めるなど。私に言わせれば「あなたたち、一体何がしたいの?」という世界である。
逆張りというか、それに抗うかのごとくサブカルチャーや高尚とされる文化に身を投じる者も散見されるが、これもまた私に言わせれば「あなたそれ、本当にやりたくてやってる?」的な印象である。実際、「純粋に好きで楽しい」という動機で粛々と打ち込んでいる方と比較してしまうと、その浅はかさたるや、覆うべくもない。
もう言葉を選ぶのは止めよう。明らかに、病んでいる。
これらの症例からも分かるように、「素直にゲイを楽しんでいるゲイ」は、もはや希少種となってしまった。ちなみに私は、捻くれてはいるが、病んではいない。屈折している自分のことが好きで、それを楽しんでいるからだ。十年くらい前ならまだ、ゲイバーやクラブに一人や二人そういうのがいて、悪い顔をしながらゲラゲラと美味しくお酒を酌み交わせたものだけれど。まあ、そりゃあ、私もあまりそういう場に出なくなるわけだよなあ。社会勉強としてたまに顔を出したりはするが、心躍る瞬間は、あんまりない。かといって、そういった要素をその場に求めることも、自らがその界隈でエンターテイン側に回ろうという気も、もはや湧いてこない。居合わせた座の役割として生贄的に道化を引き受けることはあっても、死にゆくものを無理やり延命させて年金が入る期間をちまちまと引き延ばしたところで、私に何のメリットがあるというのか。
私はドクターキリコであって、ブラックジャックじゃない。ほんとうは、黙っていても守られ可愛がられるピノコになりたかったけれどね(笑)。運命は変えられても、運命そのものから抜け出すことはできないのだ。
Shine on you.
2024/08/20
しょうがない自分
スーツケースがすかすかだと落ち着かない。上からのしかからなくても閉まるということは、なにかを入れ忘れているということだからだ。心配性は荷物が多い。ならばあえてと、ミニマリストを気取って最低限の装備で出発すれば、あれがあったなら、これが整っていたなら、と嘆き、なんなら現地で買い揃える。強迫性障害とまでは言わないが、心の中だけのジンクスや儀式的行動は、私にとって重大な意味を持つ。 といいつつ「身軽でいたい」という考えが、ギチギチになった頭の片隅に萌芽する意味もまた大きい。それは日々の睡眠のように、ブラウザの再起動のように、記憶やキャッシュの整理は必要に駆られて起こるのだろうから。
荷物も、そして才能も技術も、手にしていても意志をもって活用することがなければ、ただ重苦しいだけだ。
私がなにも意識せず手成りでやれてしまう作業が、もしかしたら誰かが喉から手を伸ばしてでも欲しがる才能であるかもしれないし、そして同じように、私が後生一生大事にしている矜持が、他人からすればちっぽけなプライドにしか映らないこともある。価値の主軸をどこに置くかで、自分の立ち位置も決まるのだ。
「自分は運が良い」と明確な自覚がある人はあまり多くを変えたがらない、という説がある。平易にいえば現状をなんとかする力が強いといったところか。逆に、「運の良い人になりたい」ともがく人ほど、見境のないご朱印帳や肘まで連なるパワーストーン、自己啓発めいた上辺だけの言葉で身を固め、結局、周囲のなにかが変わってくれるのをじっと待っている。厳然とそこにいる「しょうがない自分」には一瞥もくれずに。ひとりではなにもできなくて、臆病で、暗い、でも希望が欲しい、そんなしょうがない自分とどうにかこうにか折り合いをつけていかなきゃ、すでにそこにある運にすら気づけないとは思わないだろうか。
運が良いとされる人の特徴のひとつには「よくわからないものを見つけるのが好き」というのがあるそうだ。新奇探求性と呼ぶそうだが、ネットの片隅で静かに発信している私を見つけて、こんなブログまで読んじゃっているたあなたは、相当、かなり、「運が良い人」だと私は考える。もちろん、その運が私自身と関連するかはさておきではあるけれども(笑)。
Shine on you.
2024/06/27
傷だらけのダイヤ
2024/05/13
いびつに咲く花
先日、事故って盛大に壊れた愛機MacBook Airが、長い修理を経て帰還した。
それまでCDとSDカード読み取り専用機として所持している2011年製MacBook Proで代替していた
(動画や音声関連のアップが遅れていたのはそのせいなのでした。。)のだけれども
Mチップってやっぱりすごい!
んギガの動画もギュインギュイン処理してくれる。
こいつとあと5年は戦えそう。頼んだからね。
「自分は物持ちが良い」と長年思っていたし、その自覚も多少はあって
例えば、こういった機械類だったり、アクセサリーや服、賃貸契約に至るまで。
と言いつつ、なんか違うなとモヤモヤするものは、ただ来ては去る。べつに拒みも追いもしない。
恐らく物持ちの良さは結果で、私の特技は「しっくりくるものを維持すること」なのだと思う。
指輪は、いまでは製造されてない型番の品をずっと愛用している。
そりゃあ、買った当時は最新だったのだから当たり前の話だ。
ときどき、それに価値を見出す人が現れて、廃盤レアだとかいって譲ってくれと値踏みしてくる。
私はそういうとき、こいつケンカでも売っているんだろうか?と考えてしまう。
昨日は指輪を一斉リペアにだして、私の指は少しさみしいけれど
歪んだまま、そして歪んでいることにも気づかないまま使い続けて
ある日手の施しようがないほど破綻したとき、あのとき調整していれば、と後悔したくない。
人間関係も、そして同じように、並行してフラッシュバックする。
私と友人の付き合いを羨ましがる人が、たまにいる。
そんな友達いない、恋人とそういう関係になりたい、関係構築の秘訣は何だと
挙げ句の果てには「付き合えばいいのに」など、意図の分からない質問や期待の砲火を受ける。
あなたがたは腕に腕章でも付けた審査員で、私たちは何ですか?
あなたがたが想い描く理想型に倣った盆栽だか、和牛だか、宝石なんですか?
歪んだ指輪は、ただ叩いて真円にすればいいってもんじゃない。
はめる指や使い方の癖で、いや、なんなら鋳造された段階で、どこが歪みやすいか決まるそうだ。
微妙なズレをあえて残すんだよ、という御徒町のリペアマンの呟きに深く納得したことがある。
考えたことはないだろうか。SFのような話で申し訳ないけれども。
きっかけはなんでもいいい。新品であろうと、歪んでいようと、はたまた整備品であろうと。
私は、誰かの関係者になれることに心が躍る。
しっくりくるまでお互いの歪みを確かめ合えるなんて、愛のなせる業だと思いませんこと?
少なくとも私は、そう思う。
Shine on you.
2024/04/04
曇天、揺れるうたかた
東京はもう葉桜がちらほら。
基本的にインドアなので、外出の際は情報量に圧倒されます。
無意識のうちに最適化できる人もいれば、常時オン(またはオフ)の人、
自ら選択的に取り込む情報を調節できる人、いろいろなタイプがいますね。
その性質をどうこう説明したところで、薄ぼんやりとした共感を求め合うだけだから
「桜」はセンシティヴ・マターといいますか、気軽に苦手と言えない
花が担う概念として、「桜」は背負わされている荷が少々重すぎるのではないかと
同情めいた思いが芽生えるようです。
いろんなもののシンボルになっちゃうって、大変ですね。
下手なことできない!
「桜流し」なんていう雅な表現がありますが
降雨後の水溜りに散った花弁が密集している様は、いやにグロテスクに感じられ
そこに靴跡が付いていた日などは、忘れ去られた柘榴を見てしまったときにも似た
このまま酒でも飲んで憂さ晴らしをしようか、という気分になる。
「色あひふかく花房ながく咲きたる藤の花の松にかかりたる。」と、枕草子にもあるように
藤も藤で、背負わされちゃってますね(笑)
「ただ在る」という現象に、美を見出しているのは、私たち。
視覚はおろか、あるいは、意識さえも。
寝食を共にし、愛着のある色や形・象徴で飾り立て、片時も手放さない。
人によっては、現実とはかけ離れた状態で、共通の回路を持つ他者と通じ合う。
そう思える瞬間がある。
私たちは日常を、そして、個人的な情報の大半を委ねている。
例えば、恋に身を焦がし、端末を手繰り寄せては放り投げる夜
それに鳴ってくれと願うとき、それはもうただの機械ではない。
カラクリ、automatonの語源はギリシャ語のαὐτόματον(おのずから動くもの)
Shine on you.
2024/02/06
麻薬としての夢
「あなたにとって愛とは?」というパーソナルな質問をときどき受ける。
愚問!と一蹴していた時期もあったが、人間というのは他人の反応によって
質問に対してはできる限り、私なりの言葉に置き換えて答えるようにしている。
愛に迷える人とは、共に方略を考えたい。私自身もそうであるように。
誰かに語った身の上話が「愛のなせる行為だ」と評されるとき
すべてのエピソードに必ずその感覚が伴っているからだ。
誰かを真剣に思うとき、私の心はすこしさみしくて、そして喜んでいる。
心は脳にあるはずなのに、胸の少し左、心臓のあたりが昂るのだ。
エゴサーチ、略してエゴサと呼ぶが、私はエゴサを頑なにやらない。
検索せねば出て来ぬ話なぞ、醜聞と相場が決まっているし、実際そうだからである。
大抵の日常や変わった話などは、このブログや各種媒体で発信しているためか
予想に反して大した悪口は書かれておらず、まあ
「よくもまあ何年も飽きずに私への執着を持ち続けていられるものだ」と
逆にこちらが感心してしまう女性が1名いる。いや、まだいた。
そこから私を知り鑑定に来てくださった方もいらっしゃるので
いまとなっては、なんならむしろ、感謝しているくらいだ。
文章構成や妄想の結びつけ方、それを書き起こさんとする異様な過集中ぶりから
彼女が、いわゆる「頭がお気の毒な方」であることは一目瞭然であり
先述のとおり私は、外野から自分がなにを言われているのかに、まったく興味がないため
粘着されるに至った経緯はよく分からないのだが、おそらく元恋人と破局を迎えた
2021年あたりに「見つかってしまった」であろうと思われる。
いかんせん陽性症状MAX「無敵の人」であるから、被害届も受理されないし
多方面からの訴えも徒労に終わるだろう。
月日は平等であるから、こちらも三十路を超えいい歳になると心持ちも変わる。
確かに、3年に渡り、根も葉もない妄想で私を貶めんとする彼女の行いは、悪質である。
だが、彼女だけでなく、彼女があのような精神状態に陥っても、なお
アクセスができてしまう、このインターネットにも、問題があるのではないか。
いまの私には、そう思えてならない。
潰えたであろう夢や、あるはずだった未来への悔恨が見受けられる。
あるいは、なりたい者になれなかった絶望、過ぎゆくがまま堰き止められぬ有限の時間。
あの手の話題はもはやお察しというか、あんまり触れてやるなよという世界である。
愛するがゆえにか、狂いゆく道すがらGACKT氏に出会ってしまったのか。
Shine on you.
2024/02/04
運命の五叉路
巻き戻してる映画だってひとり頷く
あと一歩前へ進めば分かるの?
それともあと一歩退がればいいの?
これは音楽ユニットglobeの「とにかく無性に…」という曲の一節だが
初めてこの曲を聴いたときの、これまでの人生の違和感が言語化されるかのような
カタルシスめいた感覚が忘れられない。
いまでも聴き返しては、その余韻に浸るほどだ。
ここまで書くとほとんどネタバレだが、映画「メメント」を観た際にも
同じような衝撃を受けた。
「とにかく無性に…」のリリースは2000年6月14日、そして
「メメント」の公開は2000年9月3日(日本では2001年11月3日)であるから
当時のエンターテインメントには「洗練と退廃の90年代の集大成」的な
雰囲気が醸成されていた気がする。あくまで、9歳10歳のガキんちょの体感でしかないが。
過去と、その連続性としての現在と、見え透いているようで不確定な未来。
宇宙の最高傑作こと、お花畑スピリチュアル界隈の方々が擦りに擦り尽くしている鉄板ネタ
「引き寄せの法則」も、よくよく紐解いていくと、実際にやらんとしているのは
引き寄せることではなく「現在の軌道を微調整していく」作業と言えるだろう。
望む未来を口を開けて待つのではなく、自らをその未来に寄せていくというわけだ。
このあたりの綾を分かっている人とは、畑違いでも話が弾む。
ところで、聡明な読者諸氏は「願いが叶いやすい人」と「叶いづらい人」の違い
あるいは、「運がいい人」と「運が悪い人」の違いと言い換えてもいい。
これをご存知だろうか?
答えは実に単純明快なのだが、人間は迷う生き物である。
迷っているときに人生に関わる大きな決定は下さぬほうが良い。
私が32年の人生経験において得た教訓のひとつだ。
Shine on you.
2024/01/30
"Be strong, Mitsuko."
いつしか私は「見られてもいいものしか見せない」という選択をするようになった。
手間暇をかけて作り上げたものを乱雑に扱われるのは
悲しいというか、ただただ空しい。
ライヴ配信を試みたのだが、私にとってはまさに試金石というか
「誰が真のファンなのか」でなく「誰がファンの皮を被ったフリーローダーなのか」
それをハッキリと炙り出させる回であったと言えるだろう。
シンプルな作業であったのだが、みなさまご存知の通り、私は性格が悪い故
私をオモチャにしてくる人らで、逆に、遊んでみたくなった。
開始時刻のアンケートをとる。この時点で、反応した非会員をすべてマークする。
なぜなら、彼らのために催すイベントではないという自覚がない・または
そもそも文字を読んでいない=今後、私の発信するコンテンツが響かない。
という評価ができるからだ。
いわゆる「分かっている方々」への言及を散りばめる。
これはデコイでもなんでもない、純然たる本心からくる感謝の表明である。
なぜなら、彼らはすでにフリーローダーでしかないと実証済みであるからだ。
得体の知れぬサイトで無賃視聴したAVで昂り、私の発信を読み取ろうともせず
私のホームゲームにズカズカと土足で踏み込み独自のルールを主張してくる。
ニコニコと愛想を振り撒くおすまし人形、彼らにとって私はそれ以上でも以下でもない。
けっきょく、「好都合なエロいアジア人」でしかないのだ。
後生大事に、味のないガムのように、ただしゃぶり続けているがいい。
私は、そういう連中の、日本人バージョンを突き止めたかった。
私を支えてくださる方々や、私への敬意が一欠片でもあったならば
「非会員なのに視聴できている状況」に疑問を抱くことなく
いいねを押したり、ましてコメントやDMをするなど、できるはずがないのだ。
即刻削除しリロード不可能、というアリアドネの糸まで垂らしたにも関わらず。
「アップされてるー見ちゃお♪」程度の動機であったかもしれない。
持ちうる限りの性善説をもってしても「限定なのに上がってる加賀さん優しい~」が限界だ。
あるいは、それにすら考え至ることなく肌色に目を奪われていたのか。
これに基づき、私は断腸の思いで、見てほしくない他人を遠ざけた。
遠ざけた人の中には、長期間フォローしている人も含まれていた。
だが、それが、何だというのか?
悪意のあるなしなど、この段階では、もはや、なんの意味も成さない。
1時間15,000円で顧客と向き合う私にとって、それは、看過できぬ営業妨害なのだ。
全世界に生き恥を晒しているわけではない。
ここで「なぜそこまでして?」と思った者は、勉強不足だ。出直せ。
私はいたるところで、ネット上で存在し続けようとする目的について語っている。
私のような個体は、その両者の流動性を確保する役割を担う。
私は、自らの専門分野に関してはいつだって本気だ。
気儘にやっている片手間な奴らを、ひとりずつ引っ叩いて回りたいくらいである。
ゆるいとおせ。
それをヒアルロン酸注入で補い「薄くなっていた唇に厚みが出て嬉しい」
と語ったことがある。
その直後に自称ファンから言われた言葉が、いまでも忘れられない。
Shine on you.