2025/04/04

same pain, strange pain


 春に人の気が狂うのは、なぜなのか。

片頭痛薬の効き始めを体感しながらぼんやりと思う。「花粉すごいですねえ〜眠いしもうなんていうか、春眠不覚暁?」などと雑な世間話をしていると、いつの間にやら目頭の裏側がムズムズする体質になっているように、コミュニケーションの手続きを省略すると、そのツケでも回ってくるのだろうか。(私との事案では2回目の)措置入院から舞い戻った心を病んだ近隣住人が数日もせぬうちに再逮捕されたのも、祖母の余命が幾許もないことを不仲の母親から知らされたのも、ぜんぶ、春のせいにしてしまいたい。


 海外ドラマ一気観、という真っ当な仕事にお勤めの方が聞いたら呆れるような趣味を謳歌しているのだが、ある程度偏向した集中力を持っていないと完走は難しい。人間が意識的に集中できるのはせいぜい90分程度だというから、すべて観ているようで、ところどころ抜けているのだろう。だからまた観たくなる。圧迫的に、麻薬的に。


 趣味であるタトゥーやピアス、美容整形の話になると十中八九「痛くないの?」といった流れに、そして"no pain, no gain"理論(痛みなくして得るもの無し)に帰結することが多いけれども、「では、無痛であれば加速度的に手を加え続けるのか?」という話に持っていくと、たいていは座が痴れてしまう。少なくともその話題の上では、キレイな仕上がりは、本来不要なはずの痛みに耐えてようやく手に入るオプションか、あるいは戦利品でなければならない。

実際のところ、百貨店で数万円する美容液を買って顔に塗るより、2万円くらい握りしめてボトックス注射を受けるほうが「表情皺を失くす」という目的だけをみれば経済的負担は軽く済むし、結果も段違いに良い。そして、痛みは冷却で紛れてしまう程度だ。だからといって、効力を実感でき得る箇所へ、のべつ幕無しに打ちまくるのかといえば、断じてそれはしない。欲しい状態のための手順に痛みが伴うのなら、それを甘受する。それだけの話だ。痛みが軽く済むに越したことはないけれども、膚に針を刺されて何も感じないほうが、私にはとても薄気味悪く思えるし、察知すべき痛みに反応できないということは、皮膚感覚だけでなく、むしろ、心の働きの鈍麻を疑ってしまう。


 あるいは、麻薬的という意味でいえば、別の痛みをマスキングするための痛みとでもいえば、もっとオシャレに聞こえるのだろうか。 古傷は治りたがるほど、その痛みを覚え続ける。見知らぬ痛みは恐ろしいが、痛みを知った証が古傷に宿るのだとしたら、どこへだって抱えていけるのかもしれない。薬などでは癒せぬ苦しみは厳然とそこにある。しかし私は、完治することのない片頭痛の薬を護符のごとく持ち歩き、安心を得ている。花粉で粘膜がむず痒くなるのだって、痛覚として感知されないレベルというだけで炎症していることに変わりなく、それを抗ヒスタミン薬で一時的に鎮めているに過ぎない。感じることを遠ざけている自覚がないから、痛みを伴うあれこれの話題にも食い違いが生まれるわけで、そんなに痛みを忌み嫌うのであれば、花粉の痒みを疎ましく思うのではなく、痛みを伴う重症のアレルギーでないことにまず感謝すべきなのだ。文頭で述べた「コミュニケーションの手続き」を省略しないのなら、双方の痛覚・あるいは不快感の捉え方をある程度予測して臨むのが、きっとスマートとされるのだろう。

余談だが、私が経験した痛覚のなかで最も強烈だったのは、肝生検だ。麻酔を打ってですらあの痛みである。刺されて死ぬのだけは絶対に嫌だと心から思ったし、刺殺事件の報道を見るたびに、沈黙の臓器が疼く。


 人に刺されぬような振る舞いをより強固にしていこう、と静かに誓う春。

みなさまも邪気の回らぬよう、ゆめゆめ。





Shine on you.