私は「どベタ」に弱い。
聞いていて恥ずかしくなるほど気障な愛の台詞にも、さあさここいらで泣いておくんなましー!と言わんばかりのドラマ演出にも、歯の浮くような白々しいお世辞にすら、素直に相手の意図通りに反応してしまう。性格が単純なだけというのもあるが、私は徹底的に「様式美」というものが好きなんだと思う。むしろ、「こうきたら、次はこうなるはず」という予見が裏切られたとき、その裏切りに見合う意外な展開がないと、一気に興醒めしてしまう。あんだけやってこれかよ!と。そんなことを言いつつ当の本人はといえば、しっかりといろんな人の期待を反故にしてきたので、多少の裏切られエピソードはその相殺分として甘受すべきなんだろうと、納得はいく。ゼロから生まれた者は、無限大を夢想しながらゼロへ帰結するほかないのだ。
とはいえ、何年時を経ようとも鎮まらぬ無念というのは、人生の要所要所で遭遇し、呪縛のように私たちの自由を奪うものである。
私たちはいとも簡単に、不条理と理不尽によって組み上げられた鎖の囚人になってしまう。
「置いた点と点が線になるように生きている」という表現を、私はよく自らの人生を説明する際に比喩として使う(もっと踏み込んだ言い方をするならば、すでに決められていた形に導かれているにすぎない、とすら思うが)。
いずれにせよ、儚く過ぎていく日々の中で経験するターニングポイントやマークデーといった、線を紡ぐ点となり得る出来事が、怒りや悲しみ・憎悪・妬み嫉みに血塗られていては「あなたは何のために生まれてきて、そして生きているのか?」という問いに、まず胸を張って答えることはできないのではないかと憂慮するし、そして同じように、そんなのあまりにも、さみしい。
私の生業は、癒しを与えることこそできないが、異次元からの視点を提供することにかけては誰にも負けない。さみしい人の相手をするのは、結局のところ彼らは私という他人を用いてマスターベーションを展開しているだけなので、こちらが非常に疲れるけれども、さみしい人によって困らされている人の力になるのは「誰かの役に立っている」という実感が湧くようで、飽きっぽい私ですら続けられている。私は誰かのアクセサリーではなく、アクセサリーのコーディネーターでしかないからだ。
さて、話を「どベタ」に戻す。
みなさんは、ご自身の好みを他人から否定されて、その愛着を恥じた経験があるだろうか。私は2018年に、大好きな曲をカラオケしていたら同席の顔見知りの女に「その曲ほんと嫌い、カラオケで歌う人も無理」と言われて、衝撃のあまりその曲を聴くのすら怖くなってしまったことがある。いま考えてみれば、女人禁制のゲイバーに私の顔パスで入店し、私のボトルから酒を飲み、私の伝票で勝手にシャンパンを注文するような厚かましい女の戯言など、まともに取り合う必要はなかったのだが、ついさっき、YouTubeのランダム再生でその曲が流れてくるまで、約8年間、私の「好き」は不条理と理不尽の鎖に繋がれたまま、線を結ばれることのない点になっていた。
その曲は、FIRST TAKEというさまざまな音楽家が一発録りで曲を披露する人気チャンネルで、平成にヒットしたアンセム的な扱いで公開されている動画で歌われていた。私は、好きな音楽は直感で選び取っていて、流行っているとか超絶技巧だとかで聴くことはない。コメント欄は好意的な意見ばかりで、ざっとスクロールする限り、手厳しい評価は見受けられなかった。そらそうだ、ふつーに良い曲なんだもん。
あのときの、あの女による曲や私への否定は、流行がもたらした彼女なりのいびつな反骨表現であって、私への個人攻撃が主たる目的ではなかったのかもしれないと、一握の赦しを感じた。それほどに、その曲が持つ力は色褪せていなかった。私は20代にセルフネグレクトしていた点をひとつ、いまに連なる線にしてやれたのだ。
私のように早熟だった人間の30代は、20代の報われぬ御霊を葬(おく)る時期でもあるのだと思う。
透明でいるしかできない無防備な心が武装せずに済むよう、祈りながら。みなさんは 「もう終わったことだし」なんて強がって、いまを弱気に生きていませんか?
置き去りにしてる自分を、迎えにいってみませんか?
Shine on you.