加賀優作という名の異端分子を形容する際に、必ず挙げられるであろう要素に「タトゥーがいっぱい入ってる人」というのが、まあまあの上位にくると思うのだが、私はタトゥーがそこまで好きなわけではない。
はい、いま脳みそが「??」になってしまった人とは、未来永劫分かり合えないと思うので、ここでお別れです。アデュー!
近年のタトゥー文化の市民権獲得は目覚ましく、都会であれば、絵図を露出して出歩いても特に好奇の眼差しを浴びることはない。せいぜい半ば選択的に職務質問を受けるくらいだ。とにかく、若い世代がどえらい図柄をガッツリ広範囲に入れているのには心底驚く。海外芸能人の影響が大いにあるのだろう。私の世代は、パーツひとつに対してひとつのテーマの絵図、または、よく見なければ分からないような部位にシンプルで小さい象徴を入れる、このあたりのスタイルが主流であった、という体感がある。それよりも少しお兄さんお姉さん世代は、龍は男・蝶は女、など図柄が持つ意味に主軸が置かれていて、胸割り七分は男・腰は女など、パーツにも性差があったように思う。まあ所詮は私がこの目で見てきた分母からの憶測に過ぎないので、正確性は期待しないでいただきたい。
しかしきょうびは、私を含む「ワンポイントで何年もちまちま入れてきましたよ世代」が、柄と柄を繋げて一枚絵にしたり、過去に入れた作品をカバーアップして画風を変え、全体として見たときの統一感を出そうとするなど、落ち着いていたはずの「タトゥー入れようかなドライヴ」が再燃しているように見受けられる。私など、現在お世話になっている彫り師さんに無理難題を提示しては毎度困らせてしまっており、まことに恐縮の限りだ。
「アトリビュートだけに託せぬ物語が溢れて止まらないのです」
などと宣い始めたら、いよいよ発狂したと思われてたちまち出禁にされてしまうだろう。とはいえ事実なのだから仕方がない。「一枚絵にしてまとまってる感を持たせたいんです」と、正常な判断力があると認識してもらえるような言い方に変えるなり、そこらへんはいい歳なのだから、真っ赤な嘘ではないが厳然たる本意でもない言葉を選ぶ術を洗練させておきたいものである。
私の場合は、生きていくなかで感じるサイクルのようなものに応じて、この時期のテーマはこれだな・この文言だな・この絵柄だな、といったふうにかなりランダムなやり方でタトゥーを増やしてきた。二十歳で入れ始めて、1年に1個とするなら現時点で14個入っているはずだが、先に述べたカバーアップや絵図を繋げる方略によって、かなり数を入れている割に見え方としては控えめなほうだ。そして、暗い話はできれば割愛したいところだが、家族から受けていた虐待の古傷を隠すという裏目的もあった。首から上に入れないのは、なにも顔に自信があるからじゃなくってよ。顔は美容整形でなんとかしたら気が済んだ、というだけの話で、私は目に見える形で、己が精神的に進歩している証を、この肉体に欲しかった。いつだって、どこまでも、ずっとずっと、今だって、それを待ち侘びている。
「身体を飾り立てて自分を祝福して愛してあげるの☆」という陽気な狙いが、限りなく少ないことはお分かりいただけたとして、こういった説明すらもはや面倒になる相手に対しては「メメントっていう映画とおんなじです」の一言でお茶を濁してしまう。もちろん「忘れることが生きている証だというなら、忘れさせなければ死ぬこともないじゃないか」という、この世への怨念にも似た、あの映画の説得力にシンパシーを覚えたのは、確かに事実ではあるが。皮肉なことに、目に見えるものだけがすべてではないと気づけたのは、目に見えるものをコントロールする術を得てからだった。私にとってタトゥーは、表現の手段でも結果でもなく、薄ぼんやりした自我を模索した痕跡でしかない、というわけだ。こんなスタンスの私が、タトゥー大好き!などと喧伝したら、タトゥー愛好家に殺されてしまうだろう。しかしまっさらな身体に戻ることはできないし、戻る気もない。塗りかけたキャンバスは、最後まで仕上げる。ただそれだけのことだ。
愛だけじゃおまんま食べていけないと言えるのは、着の身着のまま愛に身を委ねたことがある者のみだという。確かに、失恋を恐れて恋をしないなんて愚かであるし、そして同じように、自分なりの愛の表現型を知ろうともせぬまま漫然と生きてしまうのは、死ぬことよりも恐ろしい。
そんな私の愛の表現型のひとつに「想像する」というのがある。
簡単に言ってしまえば、ある事象に対して複数の可能性の派生を作る力が、そこらへんの人よりも訓練されている。それを仕事にも流用できてしまうから、なかなかにややこしいものがあるわけだが。
たまに勘違いされるけれども、我欲を核にしたイメージングは想像ではなく「都合のいい妄想」である。この辺りの境界線が曖昧になったらば、途端に頭がお気の毒な人と認定されるので、見たいものしか見たくないおめでたい人は、ゆめゆめ真似なさらぬよう。
想像力の乏しい人は、ちょっと考えれば分かるようなことをすぐに他人から引き出したがる。
例えば私のタトゥーを例に挙げるとするならば、私の身体を見るなり「痛くないの?」「いくらしたの?」などと、彼らは平気で訊いてくる。正直、バカなんじゃないかと一瞬思ってしまう。皮膚の真皮層にまでインクを含ませた針を刺すのだから、高閾値機械受容器はバシバシと脳へ信号を送るに決まっているでしょう。なにより、人様が身につけているもののお値段を訊くなんて、よっぽど生育環境が賤しかったのだろうかと、お育ちまで疑ってしまいそうになる。
しかしそこですぐに激昂せず「場所によって痛みの感じ方はまちまちですかねえ、ここまではまあまあでしたけど、ここから先は激痛でしたw」とか「これもまた場所によってまちまちでですねえ、安かろう悪かろうとも言い切れず、まあ相場的には、これくらいのサイズなら片手でいけるんじゃないですかねえ〜」とか、そういった回答が欲しいんだろうという予見は即座にできるので、欲しそうな答えを欲しがるだけ与えるようにしているが、内心では、そうやってどんどん自分の頭で考える力を失い続けて傀儡人形にでもなり果てるがいい、とせせら嗤っている。
やはりなんといっても究極の愚問は、入れた理由や絵図の意味を聞き出そうとすることだろう。彫り師ですら、共に絵図を作り上げていくなかで、その意図を織り交ぜながら説明し解釈を共有することはあれど、顧客に対して「どうしてこのデザインにするんですか」なんて、よっぽど無茶な要望でない限り、絶対に問い質さない。
これはもう、2文字でしか表現できない。礼儀。
恵まれているはずのものを使おうとしないというか、他人に迷惑をかけることに対するコストについて無頓着な人が、私は本当に苦手なんだなと再認識した。
と、なんだかんだ言いながら、適切に怒りを表明しようと試みるのもまた、私の愛の表現型なのだろう。
どうでもいい人には、なんにも感じないからね。
「愛ってね、膨らめば膨らむほど、尖っていく」 尖る愛 / ヴィドール
Shine on you.