ここのところ、いわゆる告発が頻発しているように見受けられる。
告発というより、「必要悪の無効が顕在化しつつある」とでもいうべきか。大物芸能人からの性被害を、口止め料を受け取ったにも関わらず告発した女性の事案が記憶に新しい。こういった業界の末席にしれっと身を置く者としては、特別扱いの見返りに有限の何かの提供を要求されるとか、面倒な騒ぎが起きる前に金で解決を試みるとかなどは、よく聞く話であるから正直それ自体に驚くことはないが、素人さんに及び知られてしまうレイヤーにまで話が上がってきてしまう時代になったのかと、そちらのほうに関心を持っていかれる。暴露系配信者が1ジャンルを形成するくらいであるから、やはり一定の潜在需要もあったのだろうが、私は単純に、よく消されないな、と思ってしまう。それはもう、文字通りの意味で。
語られてこなかった事実が白日の下に晒される。ある者にとっては痛快な勧善懲悪活劇の延長に感じられ、ある者は当事者のそれまでの沈黙の苦痛を思い涙し、ある者はただそこに別の意図や作為を見出す。
占星術の話に置き換えると、現在の世相は「集団心理の抽出」から「個としての統一」への過渡期であるといえる。争ってばかりもいられないんだけど、争いの中でしか救われぬ魂もあるよね、という悲しい物語の中では、誰だって我が身が可愛い。個として成立することの尊さは、裏を返せば「自分さえ良ければそれでいい」という卑しさとの紙一重というわけだ。去年の中頃からうねりを見せ始めた見慣れぬ流れは本年、加速度的に可視化されていくだろう。求むる未来が定まっている者はその青写真を手にし、そうでない者は、撮り直しの効くスピード写真のように、延々と奇跡の一枚を待つだけの期間となる。それをボーナスタイムと捉えるか、執行猶予と解釈するのかは、私の預かり知るところではないが。
「◯◯っぽさ」はときとして枷となる。
しかしカポエイラのように、枷ありきで豊かに発展する技もある。自由は制約のなかで輝きを増し、それはやがて、制約がもたらす陰をも相殺し得る。
陰に呑まれぬためには、光に眩まぬためには、大衆という名の圧力に埋もれぬためには、これだけは負けぬという、自分だけの必殺技を見つけるのです。
Shine on you.