万物流転、諸行無常。
移り変わる景色の中にいても、ずっと忘れたくない。
私の心の奥のいちばん深い場所には、なにがあっても揺るがぬ思いがある。
物心がついたときからすでにそこにあって、私を衝き動かす源のような概念。
そして例え、その思いが私を蝕み滅ぼそうとも、私はそれを捨て去ることができない。
私が自分のことを私だと呼べる保証は、その思いにしかないと、どこかで考えているからだろう。
それさえ失わなければ、どんな変化もきっと怖くはないと。
実感を伴った言葉は記憶に残りやすいものだと云う。
ブリトニー・スピアーズは不敵な笑みを湛えながらそう歌った(かなり意訳です)。
あまりにも極端な分類だが、あながち間違いでもないとも思う。
自分はどちら側の人間なのだろうと、ときどき考える。
やっていることはほぼ見世物だが、立場としてはどうだろう。
限りなく傍観者に徹することへ安らぎを覚える自分がいる。
私はきっと、どちらでもあってどちらでもない。
境界線の上で、双方を繋げる通過点になって。
踊らされている人々の中から、意図を持って躍る人を
同じ孤独を分かち合える人を、探し出すような感覚。
これは持論だが、コレクターには2種類いる。
揃えたがる人(collector)と、補いたがる(corrector)人だ。
前者はこだわりが収集物にあるのに対して、後者の関心は限りなく個人へ向いている。
執着が対象自体にあるのか、対象に投影する自己にあるのか、という違いである。
そういう意味において私は間違いなくRのコレクターであると断言できる。
欠乏を満たせるのであれば、それに必要な要素の数や量、質や価値はもはや問題ではないのだ。
この癖が愛情に向いたとき、それは極限まで膨らみ、尖る。
柔らかく包み込むような温かさを求めながら、私の愛は相手を貫いてしまう。
自分がして欲しかったことを、相手にしているだけなのに。
相手の幸福を願うほど、私は欠乏していく。
そして、いつからか、私は欲しがらなくなった。
善いことなのか、不健全なのかは分からないし、それはこの際どうでもいいことだ。
ひとつ確実に言えるのは、私は以前より自分を生きやすくなった。
余剰が排出されるように、欠乏自体にもなにか意味があるのだ。
そこに宿る意味を、即座に埋めてしまおうとする前に考えたい。
歪で美しいこの世界を一瞥しながら。
この世界は美しい
私が思うよりずっと
あなたの見ている景色を、すべて
私の地図に描き加えたい
Shine on you.