2023/11/20

true colors


らしくないことをしてみようと突如思い立ち

ラップトップを外へ持ち出して、新宿のカフェでコーヒーを注文し

これを入力しています。

スタバでなんちゃらフラペチーノかなにかを飲みながらMacをいじっている個体

今の私は、傍から見たら完全に彼奴等と同類です。


なぜ私は彼らのような人間を忌むのだろうかと考えたことがある。

おそらく、あの余裕めいたアティチュードが気に入らないのだと思う。

彼らは常に充足感に満ちた面持ちで、眉間にはシワのひと筋も刻まれていない。

いとも簡単に、複雑な演算や処理をこなしているかのように見える。


かたや私はといえば、狭いアパートの一室で

「あーくそ、全っ然良い言い回しでてこねえ!」などと

巨大な熊のぬいぐるみ、桃吉ことももたんに愚痴をこぼす体たらくである。

愚痴だけならまだいい。大きめな仕事の前日などは、胃の内容物がすべて下水道へ流れていく。


多感な時期に自我の形成がスムースに完了しなかった個体は

往々にして、他人からの期待や評価にレーゾンデートルの担保を求めたがる。

私の場合は自我が屈折したままfixされてしまっているため

きっと、ピグマリオン効果だのゴーレム効果だのの証左にはなれないだろう。


とはいうものの、あくまで個人的な体験に基づいた教訓だがこういった人間は絶対に

インターネットで他人が自分自身について言及している投稿を検索してはならない。

たとえそれが好意的であれ批判的であれ、その色がこちらに流れ込んでくるからだ。

流れ込むだけならまだいい。間や量を違えば、染み付いて抜けなくなってしまう。


それは、自由の概念と似ている。

ある程度の制約があるなかで最適解を選ぶことは比較的容易いけれども

完全なる無秩序の環境で「ハイ、なんでも好きなことをやりなさい」とくると

途端に、次の一手に躊躇いが生じる。


数年にわたって某ソーシャルメディアでお世話になっている方から

私の色のイメージは白だと思う、と評していただいたことがある。

紅蓮や橄欖といった色にシンパシーを感じていた時期だったのもあり

当時はあまりピンときていなかったのだけれども

今となっては、彼女の言わんとするところが分かる気がする。


「この生業にエゴなど必要ない」と宣って憚らない私は確かに白

いや、ともすれば透明なのかもしれないとすら感じる瞬間がある。

境界線すら幽かな、透明のサンクチュアリ。

私が外側の世界へ向けて放ちたい言葉は、そこからしか生み出されない。


もはや感受性の問題だが、この無色透明の感覚を

スタバでポージングしている個体からは微塵も感じ取ることができない。

確固たる色がある。彩られているのだ。

”true colors” という表現がある。直訳すれば「本当の色」だが「本性」という意味で使われる。

シンディ・ローパーの曲でご存知の方が多いかも。

きっと“true colors ”を持たない私は、彼らが羨ましいのだ。


色彩は相対的なものであり、そして同じように、神は永遠に幾何学する。


無防備なまま。まっさらなまま。





Shine on you.

2023/09/08

橋のない川

私が育った土地、川口市(正確には旧鳩ヶ谷市なのだが)では
ここのところ不法クルド移民が話題になっている。
就労ビザなしで土木建設業などに従事し、毎夜路上で飲めや歌えやの大騒ぎであると。
約15年あの土地で生活していた人間としては
なにもクルド人だけを引き合いに出す話でもあるまいに、と一笑に付していたが
実際にソーシャルメディアへ投稿されている動画を見たところ、かなりイケイケ。
あの傍若無人さは、八幡木の不良といい勝負である。
例え川口が不法クルド移民に侵略されようとも、せいぜい上青木〜安行あたりが関の山だろう
と読んでいたがあの野蛮さを見る限り、動きが全く予見できない。
川の隔たりで世界が変わるあの街には、芝川の加護を祈るのみだ。

川は古来から文明を育んできたが、それと同時に、人と人を隔てたり定義する役割も担ってきた。
かつて「陸の孤島」と呼ばれた鳩ヶ谷は、川口との合併前から
家族単位で中国やフィリピンから移り住む人が多かった。
お互いの結束も強く、地元の人間とも平和的に共存していた。
「川沿いの張さん」とか「川向こうのマリア」といった具合に
特定の川が通り名になることも多々あった。
自分たちのテリトリーにある川に関連する人間は、無条件で仲間というわけだ。
反対に、忌み嫌うべき人間につけられるあだ名もあったが
とてもここには書けないようなひどいものばかりである。

いまでこそ東京23区内在住の私だが、このあたりに住んでいても
「あそこはもはや◯◯人街だ」「あの地区は余所者が多い」「あの一帯をうろつくのは危険だ」
といった類の話はよく耳にする。
そのたびに幼少期を過ごした秋田、そしてつい最近まで住所を置いていた川口を思い出し
どこも変わらんなと諦観に膝から崩れ落ちそうになる。
都会にだってマイルドとはいえ当たり前に差別はあるし、田舎へいくほど露骨に放たれ響き渡る。
それだけのこと。
日本はどこまでいっても、極東の島国なのだ。

川口に話を戻すと、そもそも、埼玉南部に越してくる人間は
いわゆる「訳アリ」が多く、外国人も日本人も国籍がどうこうよりもどちらかといえば
ひっそりと暮らすのか、近隣同士で支え合うのか
生活スタイルを明示することが重要視されていたように思う。
過干渉も村八分もない「みながうっすら余所者」でいられる最大の特区。
私にとって川口はそういう場所だった。

「埼玉県川口市赤羽」と揶揄までされる東京都北区赤羽が
クルド移民の侵攻を防げている理由の何割かは
中国系をはじめとする移住歴の長い移民の鋼の結束と、荒川の加護であるとみている。
どんなに隅へ行こうと、そこにある荒川という境界線が示すのは「東京都と埼玉県」、行政だ。
(川口草加・足立紛争にも同じことが言えるだろう。あの諍いにまたがるのは毛長川である。)

余談だが、鬼束ちひろの「焼ける川」という曲をご存知だろうか。
「君」と「僕」の精神的な隔たりを夕日に染まる川になぞらえて
君という向こう岸へ渡る橋がない不条理、すなわち神の不在を
ストリングスとピアノのみで歌い上げる「ザ・鬼束」なバラッド。
歌詞だけを読めばもの悲しく難解で、それこそ
解釈しようとかかるものを隔絶するような曲なのだが
私はこの曲に救いを見出してしまう。
隔たりこそが、大切に思う存在をそれたらしめているのだと。

こちら側とあちら側では、彼岸花の咲く色すら変わる。
私が私であるように、あなたもまた、あなたなのである。



とまあこんな感じで、お前は占い師・AVモデルじゃなかったのかよ!?
というような謎エッセイを垂れ流してしましましたが。。
Twitterが混迷を極めソーシャルメディアジプシーが大発生している今
ちまちまとしたお気持ち表明文章はメルマガという形で配信しようかなと画策しております。
(もちろんこのブログはずっとゆるゆる継続します)

エロ動画個人配信が流行ればレーベル専属になり、Youtubeが流行ればラジオを始め
多重在籍が流行れば出稼ぎ専門に振り、とメインストリームに意地でも乗らないことで
お馴染みのわたくし、加賀優作の第七感〜セッティエーム・サンス〜は
「次はメルマガだぞ」と静かに囁いているのです。

占いやエロスの宣伝にもなっていない、またはあまりにもパーソナルな話題
いにしえでいうところの「お目汚し」?は
別にここじゃなくてもいいかな、という感じ。
Twitterとかで出していたノリをどこかに移植したい、それだけの動機です(笑)

まだ詳細は決まっておりませんが、水星が順行に戻って気温も落ち着いてきたら
ちょいちょい動きをつけていきたいですね。
ラジオみたく満月に始めようかな(あんな好き勝手ラジオが10月で1周年!恐ろしい)。




Shine on you.

2023/08/14

解夏のビール

どうもです〜

世間は盆だけれども、間が良いというか、今月は祖父の一周忌。

もう一年経つのか!って感じ。目まぐるしく日々が過ぎて、8月に突入した。

彼が好きだったアサヒスーパードライでも飲もうかな。

なぜかは分からないけど、あの人は頑なにアサヒだった。

ちなみに加賀は麒麟派です笑


スピリチュアルな感じではないんですけど

二親等から心臓の鼓動が一つ消えるのって、案外堪えたというかキツくて

「自分の心の中で黒塗りになっていた部分に、こんなシーンが眠っていたとは……」という

気付きがたくさんありました。悔しかったり悲しかったり

ムズムズする感じ?いろんな秘密とか。

でもそれらが収束していくところはすべて、さみしさに似た喜びだった。


私が生きている限り、彼も記憶の中で生きる。

死んでもなお、誰かの記憶に残る人間。嫉妬されるべき人生。


喪が明けたら、いろいろ変わる気がする。




痛みに耐える者だけが見る景色があるという

曇る鏡の中

ひとりの男が映っているだけ

ほんとうのこと 誰にも言えずに

苦い薬を噛み砕いても、変わらぬ今


過ぎていった日々に、この目をそっと閉じる


光を知るものだけが抱える闇があるという

揺れる陽炎の中

ひとりの男が立ち止まるだけ

ほんとうのこと 誰にも言えずに

強い酒を飲み下しても、変わらぬ今


過ぎていった日々に、この目をそっと閉じる


過ぎていった日々に、この目をそっと閉じる





Shine on you.

2023/03/07

Maps


万物流転、諸行無常。
移り変わる景色の中にいても、ずっと忘れたくない。

私の心の奥のいちばん深い場所には、なにがあっても揺るがぬ思いがある。
物心がついたときからすでにそこにあって、私を衝き動かす源のような概念。
そして例え、その思いが私を蝕み滅ぼそうとも、私はそれを捨て去ることができない。
私が自分のことを私だと呼べる保証は、その思いにしかないと、どこかで考えているからだろう。
それさえ失わなければ、どんな変化もきっと怖くはないと。

実感を伴った言葉は記憶に残りやすいものだと云う。
ブリトニー・スピアーズは不敵な笑みを湛えながらそう歌った(かなり意訳です)。
あまりにも極端な分類だが、あながち間違いでもないとも思う。

自分はどちら側の人間なのだろうと、ときどき考える。
やっていることはほぼ見世物だが、立場としてはどうだろう。
限りなく傍観者に徹することへ安らぎを覚える自分がいる。
私はきっと、どちらでもあってどちらでもない。

境界線の上で、双方を繋げる通過点になって。

踊らされている人々の中から、意図を持って躍る人を
同じ孤独を分かち合える人を、探し出すような感覚。

これは持論だが、コレクターには2種類いる。
揃えたがる人(collector)と、補いたがる(corrector)人だ。
前者はこだわりが収集物にあるのに対して、後者の関心は限りなく個人へ向いている。
執着が対象自体にあるのか、対象に投影する自己にあるのか、という違いである。
そういう意味において私は間違いなくRのコレクターであると断言できる。
欠乏を満たせるのであれば、それに必要な要素の数や量、質や価値はもはや問題ではないのだ。

この癖が愛情に向いたとき、それは極限まで膨らみ、尖る。
柔らかく包み込むような温かさを求めながら、私の愛は相手を貫いてしまう。
自分がして欲しかったことを、相手にしているだけなのに。
相手の幸福を願うほど、私は欠乏していく。

そして、いつからか、私は欲しがらなくなった。

善いことなのか、不健全なのかは分からないし、それはこの際どうでもいいことだ。
ひとつ確実に言えるのは、私は以前より自分を生きやすくなった。
余剰が排出されるように、欠乏自体にもなにか意味があるのだ。
そこに宿る意味を、即座に埋めてしまおうとする前に考えたい。

歪で美しいこの世界を一瞥しながら。


この世界は美しい
私が思うよりずっと
あなたの見ている景色を、すべて
私の地図に描き加えたい




Shine on you.

弱虫の味

 
苦い薬をダイエットコークで流し込んだら
甘い囁きはセミダブルの向こう側へ

「一緒に眠ろう」 素直に言えたらいいのに

しょっぱい涙が止め処ない夜は
辛口で私のずるさをからかってよ




Shine on you.

2023/02/05

頒布用人格の形成と管理

  
同性婚に関する話題がホットですね。
加賀はいわゆるゲイの男性だけれども、ゲイライツ系の活動には消極的。
そういう活動は身綺麗な人がやるべきだと考えているから。

誰もがいろんな面を持っていて、人によって見せる側面を変える。

例えば私が持つ「ゲイの男性としての自分」は限りなく人工的で、後付け。
ゲイっぽい、とされる私の挙動や身体的特徴はすべて後天的に身につけたもので、
個人的には「葬式では神妙な顔をしておく」とか「入る店のドレスコードに従う」とか
そのあたりと同じようなレベルの教養でしかない。
メディアで見聞きするようなオネエ口調だって、私からすれば第二言語。
田舎の訛りを標準語に直す程度の楽勝チャレンジ。

私の付け焼き刃スキルは天稟なのだと思う。
大抵の他人からは「場慣れしてる」と言われ、さぞやその世界に染まっているのだろうと続く。
けれども、私には、なんにも染み付いていない。

こんな人間が、権利を勝ち取るという大義名分のもと更に擬態を重ねるのは
当事者への冒涜にしかならない。

実際、女性の権利向上を叫びながら女性を食い物にしている人間が
特定の政党との癒着や不正な資金の流れを指摘されグダグダになっているのが記憶に新しく
最近ではそれがトランス女性に飛び火して、各所でボヤ騒ぎになっている。
当事者意識のない者の声は、猿真似でしかないのだ。

自分はどこへいっても余所者。
私には少なくともその自覚がある。

自分を自分たらしめる力の源なんて、自分だけが分かっていればいいじゃない。




Shine on you.