スーツケースがすかすかだと落ち着かない。上からのしかからなくても閉まるということは、なにかを入れ忘れているということだからだ。心配性は荷物が多い。ならばあえてと、ミニマリストを気取って最低限の装備で出発すれば、あれがあったなら、これが整っていたなら、と嘆き、なんなら現地で買い揃える。強迫性障害とまでは言わないが、心の中だけのジンクスや儀式的行動は、私にとって重大な意味を持つ。 といいつつ「身軽でいたい」という考えが、ギチギチになった頭の片隅に萌芽する意味もまた大きい。それは日々の睡眠のように、ブラウザの再起動のように、記憶やキャッシュの整理は必要に駆られて起こるのだろうから。
荷物も、そして才能も技術も、手にしていても意志をもって活用することがなければ、ただ重苦しいだけだ。
私がなにも意識せず手成りでやれてしまう作業が、もしかしたら誰かが喉から手を伸ばしてでも欲しがる才能であるかもしれないし、そして同じように、私が後生一生大事にしている矜持が、他人からすればちっぽけなプライドにしか映らないこともある。価値の主軸をどこに置くかで、自分の立ち位置も決まるのだ。
「自分は運が良い」と明確な自覚がある人はあまり多くを変えたがらない、という説がある。平易にいえば現状をなんとかする力が強いといったところか。逆に、「運の良い人になりたい」ともがく人ほど、見境のないご朱印帳や肘まで連なるパワーストーン、自己啓発めいた上辺だけの言葉で身を固め、結局、周囲のなにかが変わってくれるのをじっと待っている。厳然とそこにいる「しょうがない自分」には一瞥もくれずに。ひとりではなにもできなくて、臆病で、暗い、でも希望が欲しい、そんなしょうがない自分とどうにかこうにか折り合いをつけていかなきゃ、すでにそこにある運にすら気づけないとは思わないだろうか。
運が良いとされる人の特徴のひとつには「よくわからないものを見つけるのが好き」というのがあるそうだ。新奇探求性と呼ぶそうだが、ネットの片隅で静かに発信している私を見つけて、こんなブログまで読んじゃっているたあなたは、相当、かなり、「運が良い人」だと私は考える。もちろん、その運が私自身と関連するかはさておきではあるけれども(笑)。
Shine on you.