朝から、モニターと睨めっこをしている。
後を引く海外ドラマにハマったわけでも、永久保存版だと確信するアダルト動画に出会ったわけでも、ない。「記憶の中の音楽をふたつ、デジタルの海で探す」という途方もない作業をやっていて、ひとまず中断したところだ。あまりにもマニアック、いやコアすぎる音楽ゆえ、鼻歌アプリもだんまりで、肝心のCDは実家にあるか、友人に借りパクされている。頼みの綱は記憶と、こちら側に残された僅かな過去データのみ。コンピレーションアルバムの1曲だったはず、とそのCDのジャケット画像をまず検索。買ったのが2009年か2010年だから、それより後にリリースされた音源は除外して......とまずは1曲発見。フォトメモリー型人間の得な一面である。音と視覚(映像・色・記号・アイコンなど)を立体的に配置して記憶する癖がある私は、「あの曲はおそらくあそこ」と目星をつけ、ズルズルとサルベージしたのだった。残るもう1曲が難儀で、実をいうと「ハイになったときにしか聴いていなかった」という、なんとも若気の至り極まりない理由で、あるべきはずの位置に記憶のインデックスが見当たらない。今更、いい大人があられもない醜態を晒すわけにもいかないので、あの宗教的なマントラめいた詠唱がサンプリングされたゴアトランスを探すべく、ひたすらカトリックの讃美歌を検索して再生している。私の勘だが、おそらくあの詠唱は「インドだからヒンドゥーのヴェーダ」というわけではなく、カトリック人口の多いゴア地方でヒッピー白人が思い描いた「理想のインド」がもたらした産物であると想像するので、あえてヒンドゥー的要素は除外して探している。おそらく、グレゴリオ聖歌の一節なんじゃないかなあ。ゴアにはフランシスコ・ザビエルのミイラもありますしね。彼と誕生日が同じなのでなぜか覚えている。
「異国情緒」なんてものは、余所者が勝手に構築するイマジナリー彼国にすぎない。その国で産まれ育ち生きている者、いや、その国に親しみのある者にとっては、普遍的な日常に過ぎないのだから。南国の人は雪景色に憧憬を見出すけれども、北国で生活していた者からすれば雪は、厄介な気象でしかないのと同じように。馴染みのない人にとっては白銀の世界に思えても、見知った人間にとっては、一歩足を踏み外せば生き埋めになる死の氷なのだ。
交わることのない文化はやがて滅びる。交わり過ぎた文化はやがて変質する。能の世界でも、女性を取り入れた金春流や宝生流などがその好例であろう。
さて、そんなお戯ればかりで私は日々を消費しているわけではなく、ここのところは、毎週水曜日のMAGICをもっと盛り上げていくにはどうしていこうかと、思索を巡らす時間のほうが多い。
私の映画好きが昂じて映画談義になる日もあれば、酔った勢いで業界の裏話を発表し合う暴露デーになる日もあるし、私のオカルト的な助言を求めて来店する方が重なる日もある。これは、私という人格が多面的で、そして同じように、掴みどころのないミステリアスな存在であることの証左であるのと共に、その不透明さを警戒されて、来店まで繋がらない例も多かれ少なかれあるのも事実だ。
嘆かわしいことに、私は、キャッチーな人間ではない。
エゴの塊のような振る舞いをしながら「自我なんてものは存在しない」などと宣う。バカにもなれず賢しらにも成りきれぬ、東京が作り出した怪物。それが加賀優作なのだ。簡単に言ってしまえば「クセつよ店主」といったところか。私は不運なことに、それを強調しすぎてしまった悪例だが、悪い見本にも「反面教師」としてのお役目は果たせるというものだ。都会で生きていくには取っ掛かりというか、多少のクセは必要である。必須と断言してもいいくらいだ。私という仕上がりをご覧いただくことが、みなさまのより善い人格形成を進める作業の参考になれば、幸甚の極み。
ぼんやりした薄味な日常に飽きてしまったら、ぜひ水曜日にMAGICへおいでませ。
Shine on you.