おいしい水出しコーヒーを飲んでいる。
カフェインを摂取したいだけならそのへんのインスタントで事足りるが、自分のためにひと手間ふた手間をかけるのは、他人にも丁寧に接してみようという心が整うので、私にとっては必要な儀式的行動となっている。ここのところは私生活での動きに若干の変化があり、10年間投稿し続けたきょうの占いを休止して、新宿二丁目でお給仕をさせてもらっている。二丁目MAGIC以来のレギュラー勤務だ。どういった経緯で、なんて野暮な話はお会いした人にだけぽろぽろと話してはいるが、10年12年単位で物事は、あるいは人の人生というのは図らずとも動いていくのかもしれない。
運を動かすと書いて運動とはよくいったもので、いままでどちらかというと地引網漁的だったスタイルから、自分の釣り具で収穫を得られる海域へ移動する勇気を手に入れた。運が良い悪いという概念があるけれども、実際のところは、ある程度は誰にでも平等に幸運は降り注いでいる。それに気づいて拾いに赴くのか、見向きもせず己の不運を冷笑するだけなのか。その違いが目に見えぬ形で厳然と存在しているだけだ。
きょうびは、見ず知らずの人間の過去をあげつらい、正義の執行人然として石を投げる人間が生々しく可視化されてきたが、内側眼窩前頭皮質でしかものを考えられない人間がのたまう「あいつらより私は真っ当に生きてきた」という類の免罪符は、往々にして「私の人生はパッとしないものでした」という後悔の告白にすぎない(意訳: 知らん奴に変な言いがかりつけられても、気にしなくていいんですよ)。
あなたが俯いて涙を流すことを待ち侘びるやつらに、あなたの価値を決めさせていいわけがないんだもの。
人にはいろいろ事情がある。
どうしても他人に、剰え自分にすら優しくできない日もあるだろう。しかしそういう波があることと、それを表出させることは、別の話だ。ムスッとしていて許されるのはせいぜい20代前半までで、ペルソナMAXでもいいから上機嫌を装う能力の高さが「世渡り上手」となり、社会的通念としての「オトナ」の指標にもなる。
機嫌の良い人との会話を楽しむことは、私たちが思っている以上に自己治療として機能する場合が、おおいにある。人間は相手の反応によって、自分のことを知りたがる生き物であるし。
お酒を介した私であっても、占いを介した私であっても「あいつと喋れてよかった」と思ってもらえる人間でありたいものよ。
自問自答しても、AIに言葉を投げても、頭がゴチャゴチャしてしまっている人は、生身の加賀と語らってみませんか?(相変わらずへったくそな営業w)
Shine on you.