異彩を放っている人が、私は好きだ。
ひさびさの更新を盾になにを言い出すかと思えば、この有様である。ここのところは、ナチュラルに夏バテを起こして寝込んでいたり、余裕だろうと高を括って挑んだオール飲みで盛大に酔い潰れたりと、当たり前であるが、肉体の若さが失われつつある現実に、粛々と向き合っていた。心を置き去りのまま急速に肉体が老いていくのは、悪夢の再現かのように恐ろしいが、かといって、いい歳こいたおっさんが若者にヘコヘコと迎合する様も、往生際が悪く見苦しい。
では、「正しい老い」とは、何なのか。
老けたくないのであるなら、若いうちにとっとと死ねばいいだけ。簡単な話だ。そうはいかず、生きながらえつつ若さという有限の力は保持していたい。そんな傲慢さが、答えなど出るはずもない命題となって鏡に映る似姿へ投影されるのだろう。しかし鏡はただ、今の自分を反射させるだけなので、鏡に映るものが気に入らないのならば、それは、これまでの生き方に無理があったという、諦観への導きなのだ。
神は細部に宿ると云うが、年増感も細部に顕れる。肘膝・関節の黒ずみ、顔と首の膚の質感の乖離、抜けるような透明感の喪失、などなど枚挙に遑がないものだが、私は「ヘソの形が崩れたら脱ぐ仕事を一切辞めよう」と、21歳のときに操を立てた(笑)。しかしそんな私の予想をはるかに超えて、私の腹の肉は頑張ってくれてしまっている。辞めるに辞められないのだ。自分が腹筋の割れた三十路になるなんて、誰が想像できただろうか。
そこで私は現実の問題に立ち返り、「脱ぐための服」しか持っていないことに気づく。タートルネックや、ピタピタ系のインポート、重ね着なんて以ての外。冬でも2枚着首元ざっくり、タンクトップ・ボートネックマンセー男が、もしこのまま40代に突入してしまったら……。脱ぎたがりの変質者が完成してしまう前に、年相応の「無難な格好」を会得せねばならないのだが、幸か不幸か、私は物持ちがとても良い。11年前に買ったパンツをいまだに履いているし、革ジャンに至っては大規模なリペアなしで14年目に突入する。流行り廃りがない服を選ぶのが得意なのだろう。周囲の人間からは「とんでもない服をしれっと着ている」などと評されるが、それは柄や色が派手なだけで、よくよく見ればシルエットは定番というか、ハズレのない型であることが多い。トラディショナルを雑に着るというか、いつまで着てんねん!と突っ込まれるの待ちなところは、Vivienne Westwoodを敬愛する所以でもあるとは思う。だがやはり、私はプリセットの姿が裸体のまま、この歳になってしまったのだ。TPOに応じて溶け込む格好が、どうしてもできない。そのくせ、野外露出に対しての「いやふつーに公然猥褻じゃん無理無理」という倫理観はキチンと持ち合わせているから、なおのことたちが悪い。もはやここまできてしまったのなら、蒸すわあ〜などと宣言しながらやおら上裸になれるくらい、芸人レベルの肝は据わっているべきなのだから。異彩を放つ人は、それができて、私にはできない。だから無いものねだりで、そういう人に惹かれるのだろう。
そんなどっちつかずな己と訣別するために、私は大規模な服の処分を断行した。結果はもうみなさまお察しの通り、他所行きの一張羅と家用のダル着だけが厳然と残るのみであった。バッチリ決めるか盛大に油断するかだけの違いで、私にはもともと「脱いでいる状態」か「なにかを仕方なく着る」かの2択しかなかったのだと再認識するだけの、非常に情けない時間であった。私に必要なのは、脱ぐための服を捨てるのと同じように、着るための服を買うことなのかもしれない。着るために洗って乾かして、そしてまた着るために洗って乾かすような服を。
それは、いつまでも無防備ではいられない自分を守るための、私にとっての「正しい老い」に繋がる鍵なのだと思う。
あなたはどんな壮年になりたいですか?
壮年のあなたは、ありし日に思い描いた自分になれていますか?
機嫌良く、鏡を見られますか?
Shine on you.