2025/10/10

break these chains


 私は「どベタ」に弱い。
聞いていて恥ずかしくなるほど気障な愛の台詞にも、さあさここいらで泣いておくんなましー!と言わんばかりのドラマ演出にも、歯の浮くような白々しいお世辞にすら、素直に相手の意図通りに反応してしまう。性格が単純なだけというのもあるが、私は徹底的に「様式美」というものが好きなんだと思う。むしろ、「こうきたら、次はこうなるはず」という予見が裏切られたとき、その裏切りに見合う意外な展開がないと、一気に興醒めしてしまう。あんだけやってこれかよ!と。そんなことを言いつつ当の本人はといえば、しっかりといろんな人の期待を反故にしてきたので、多少の裏切られエピソードはその相殺分として甘受すべきなんだろうと、納得はいく。ゼロから生まれた者は、無限大を夢想しながらゼロへ帰結するほかないのだ。
 とはいえ、何年時を経ようとも鎮まらぬ無念というのは、人生の要所要所で遭遇し、呪縛のように私たちの自由を奪うものである。

 私たちはいとも簡単に、不条理と理不尽によって組み上げられた鎖の囚人になってしまう。

 「置いた点と点が線になるように生きている」という表現を、私はよく自らの人生を説明する際に比喩として使う(もっと踏み込んだ言い方をするならば、すでに決められていた形に導かれているにすぎない、とすら思うが)。
 いずれにせよ、儚く過ぎていく日々の中で経験するターニングポイントやマークデーといった、線を紡ぐ点となり得る出来事が、怒りや悲しみ・憎悪・妬み嫉みに血塗られていては「あなたは何のために生まれてきて、そして生きているのか?」という問いに、まず胸を張って答えることはできないのではないかと憂慮するし、そして同じように、そんなのあまりにも、さみしい。
 私の生業は、癒しを与えることこそできないが、異次元からの視点を提供することにかけては誰にも負けない。さみしい人の相手をするのは、結局のところ彼らは私という他人を用いてマスターベーションを展開しているだけなので、こちらが非常に疲れるけれども、さみしい人によって困らされている人の力になるのは「誰かの役に立っている」という実感が湧くようで、飽きっぽい私ですら続けられている。私は誰かのアクセサリーではなく、アクセサリーのコーディネーターでしかないからだ。

 さて、話を「どベタ」に戻す。
 みなさんは、ご自身の好みを他人から否定されて、その愛着を恥じた経験があるだろうか。私は2018年に、大好きな曲をカラオケしていたら同席の顔見知りの女に「その曲ほんと嫌い、カラオケで歌う人も無理」と言われて、衝撃のあまりその曲を聴くのすら怖くなってしまったことがある。いま考えてみれば、女人禁制のゲイバーに私の顔パスで入店し、私のボトルから酒を飲み、私の伝票で勝手にシャンパンを注文するような厚かましい女の戯言など、まともに取り合う必要はなかったのだが、ついさっき、YouTubeのランダム再生でその曲が流れてくるまで、約8年間、私の「好き」は不条理と理不尽の鎖に繋がれたまま、線を結ばれることのない点になっていた。
 その曲は、FIRST TAKEというさまざまな音楽家が一発録りで曲を披露する人気チャンネルで、平成にヒットしたアンセム的な扱いで公開されている動画で歌われていた。私は、好きな音楽は直感で選び取っていて、流行っているとか超絶技巧だとかで聴くことはない。コメント欄は好意的な意見ばかりで、ざっとスクロールする限り、手厳しい評価は見受けられなかった。そらそうだ、ふつーに良い曲なんだもん。
 あのときの、あの女による曲や私への否定は、流行がもたらした彼女なりのいびつな反骨表現であって、私への個人攻撃が主たる目的ではなかったのかもしれないと、一握の赦しを感じた。それほどに、その曲が持つ力は色褪せていなかった。私は20代にセルフネグレクトしていた点をひとつ、いまに連なる線にしてやれたのだ。

 私のように早熟だった人間の30代は、20代の報われぬ御霊を葬(おく)る時期でもあるのだと思う。
 透明でいるしかできない無防備な心が武装せずに済むよう、祈りながら。みなさんは 「もう終わったことだし」なんて強がって、いまを弱気に生きていませんか?

置き去りにしてる自分を、迎えにいってみませんか?




Shine on you.

2025/09/17

still naked

 異彩を放っている人が、私は好きだ。

ひさびさの更新を盾になにを言い出すかと思えば、この有様である。ここのところは、ナチュラルに夏バテを起こして寝込んでいたり、余裕だろうと高を括って挑んだオール飲みで盛大に酔い潰れたりと、当たり前であるが、肉体の若さが失われつつある現実に、粛々と向き合っていた。心を置き去りのまま急速に肉体が老いていくのは、悪夢の再現かのように恐ろしいが、かといって、いい歳こいたおっさんが若者にヘコヘコと迎合する様も、往生際が悪く見苦しい。


 では、「正しい老い」とは、何なのか。


 老けたくないのであるなら、若いうちにとっとと死ねばいいだけ。簡単な話だ。そうはいかず、生きながらえつつ若さという有限の力は保持していたい。そんな傲慢さが、答えなど出るはずもない命題となって鏡に映る似姿へ投影されるのだろう。しかし鏡はただ、今の自分を反射させるだけなので、鏡に映るものが気に入らないのならば、それは、これまでの生き方に無理があったという、諦観への導きなのだ。

 神は細部に宿ると云うが、年増感も細部に顕れる。肘膝・関節の黒ずみ、顔と首の膚の質感の乖離、抜けるような透明感の喪失、などなど枚挙に遑がないものだが、私は「ヘソの形が崩れたら脱ぐ仕事を一切辞めよう」と、21歳のときに操を立てた(笑)。しかしそんな私の予想をはるかに超えて、私の腹の肉は頑張ってくれてしまっている。辞めるに辞められないのだ。自分が腹筋の割れた三十路になるなんて、誰が想像できただろうか。


 そこで私は現実の問題に立ち返り、「脱ぐための服」しか持っていないことに気づく。タートルネックや、ピタピタ系のインポート、重ね着なんて以ての外。冬でも2枚着首元ざっくり、タンクトップ・ボートネックマンセー男が、もしこのまま40代に突入してしまったら……。脱ぎたがりの変質者が完成してしまう前に、年相応の「無難な格好」を会得せねばならないのだが、幸か不幸か、私は物持ちがとても良い。11年前に買ったパンツをいまだに履いているし、革ジャンに至っては大規模なリペアなしで14年目に突入する。流行り廃りがない服を選ぶのが得意なのだろう。周囲の人間からは「とんでもない服をしれっと着ている」などと評されるが、それは柄や色が派手なだけで、よくよく見ればシルエットは定番というか、ハズレのない型であることが多い。トラディショナルを雑に着るというか、いつまで着てんねん!と突っ込まれるの待ちなところは、Vivienne Westwoodを敬愛する所以でもあるとは思う。だがやはり、私はプリセットの姿が裸体のまま、この歳になってしまったのだ。TPOに応じて溶け込む格好が、どうしてもできない。そのくせ、野外露出に対しての「いやふつーに公然猥褻じゃん無理無理」という倫理観はキチンと持ち合わせているから、なおのことたちが悪い。もはやここまできてしまったのなら、蒸すわあ〜などと宣言しながらやおら上裸になれるくらい、芸人レベルの肝は据わっているべきなのだから。異彩を放つ人は、それができて、私にはできない。だから無いものねだりで、そういう人に惹かれるのだろう。


 そんなどっちつかずな己と訣別するために、私は大規模な服の処分を断行した。結果はもうみなさまお察しの通り、他所行きの一張羅と家用のダル着だけが厳然と残るのみであった。バッチリ決めるか盛大に油断するかだけの違いで、私にはもともと「脱いでいる状態」か「なにかを仕方なく着る」かの2択しかなかったのだと再認識するだけの、非常に情けない時間であった。私に必要なのは、脱ぐための服を捨てるのと同じように、着るための服を買うことなのかもしれない。着るために洗って乾かして、そしてまた着るために洗って乾かすような服を。


 それは、いつまでも無防備ではいられない自分を守るための、私にとっての「正しい老い」に繋がる鍵なのだと思う。


 あなたはどんな壮年になりたいですか?

壮年のあなたは、ありし日に思い描いた自分になれていますか?


 機嫌良く、鏡を見られますか?





Shine on you.