2025/10/10
break these chains
2025/09/17
still naked
異彩を放っている人が、私は好きだ。
ひさびさの更新を盾になにを言い出すかと思えば、この有様である。ここのところは、ナチュラルに夏バテを起こして寝込んでいたり、余裕だろうと高を括って挑んだオール飲みで盛大に酔い潰れたりと、当たり前であるが、肉体の若さが失われつつある現実に、粛々と向き合っていた。心を置き去りのまま急速に肉体が老いていくのは、悪夢の再現かのように恐ろしいが、かといって、いい歳こいたおっさんが若者にヘコヘコと迎合する様も、往生際が悪く見苦しい。
では、「正しい老い」とは、何なのか。
老けたくないのであるなら、若いうちにとっとと死ねばいいだけ。簡単な話だ。そうはいかず、生きながらえつつ若さという有限の力は保持していたい。そんな傲慢さが、答えなど出るはずもない命題となって鏡に映る似姿へ投影されるのだろう。しかし鏡はただ、今の自分を反射させるだけなので、鏡に映るものが気に入らないのならば、それは、これまでの生き方に無理があったという、諦観への導きなのだ。
神は細部に宿ると云うが、年増感も細部に顕れる。肘膝・関節の黒ずみ、顔と首の膚の質感の乖離、抜けるような透明感の喪失、などなど枚挙に遑がないものだが、私は「ヘソの形が崩れたら脱ぐ仕事を一切辞めよう」と、21歳のときに操を立てた(笑)。しかしそんな私の予想をはるかに超えて、私の腹の肉は頑張ってくれてしまっている。辞めるに辞められないのだ。自分が腹筋の割れた三十路になるなんて、誰が想像できただろうか。
そこで私は現実の問題に立ち返り、「脱ぐための服」しか持っていないことに気づく。タートルネックや、ピタピタ系のインポート、重ね着なんて以ての外。冬でも2枚着首元ざっくり、タンクトップ・ボートネックマンセー男が、もしこのまま40代に突入してしまったら……。脱ぎたがりの変質者が完成してしまう前に、年相応の「無難な格好」を会得せねばならないのだが、幸か不幸か、私は物持ちがとても良い。11年前に買ったパンツをいまだに履いているし、革ジャンに至っては大規模なリペアなしで14年目に突入する。流行り廃りがない服を選ぶのが得意なのだろう。周囲の人間からは「とんでもない服をしれっと着ている」などと評されるが、それは柄や色が派手なだけで、よくよく見ればシルエットは定番というか、ハズレのない型であることが多い。トラディショナルを雑に着るというか、いつまで着てんねん!と突っ込まれるの待ちなところは、Vivienne Westwoodを敬愛する所以でもあるとは思う。だがやはり、私はプリセットの姿が裸体のまま、この歳になってしまったのだ。TPOに応じて溶け込む格好が、どうしてもできない。そのくせ、野外露出に対しての「いやふつーに公然猥褻じゃん無理無理」という倫理観はキチンと持ち合わせているから、なおのことたちが悪い。もはやここまできてしまったのなら、蒸すわあ〜などと宣言しながらやおら上裸になれるくらい、芸人レベルの肝は据わっているべきなのだから。異彩を放つ人は、それができて、私にはできない。だから無いものねだりで、そういう人に惹かれるのだろう。
そんなどっちつかずな己と訣別するために、私は大規模な服の処分を断行した。結果はもうみなさまお察しの通り、他所行きの一張羅と家用のダル着だけが厳然と残るのみであった。バッチリ決めるか盛大に油断するかだけの違いで、私にはもともと「脱いでいる状態」か「なにかを仕方なく着る」かの2択しかなかったのだと再認識するだけの、非常に情けない時間であった。私に必要なのは、脱ぐための服を捨てるのと同じように、着るための服を買うことなのかもしれない。着るために洗って乾かして、そしてまた着るために洗って乾かすような服を。
それは、いつまでも無防備ではいられない自分を守るための、私にとっての「正しい老い」に繋がる鍵なのだと思う。
あなたはどんな壮年になりたいですか?
壮年のあなたは、ありし日に思い描いた自分になれていますか?
機嫌良く、鏡を見られますか?
Shine on you.
2025/07/14
ベイカーベイカーパラドクス
2025/05/12
Do you believe that we can change the future?
2025/05/03
So do I
2025/04/04
same pain, strange pain
春に人の気が狂うのは、なぜなのか。
片頭痛薬の効き始めを体感しながらぼんやりと思う。「花粉すごいですねえ〜眠いしもうなんていうか、春眠不覚暁?」などと雑な世間話をしていると、いつの間にやら目頭の裏側がムズムズする体質になっているように、コミュニケーションの手続きを省略すると、そのツケでも回ってくるのだろうか。(私との事案では2回目の)措置入院から舞い戻った心を病んだ近隣住人が数日もせぬうちに再逮捕されたのも、祖母の余命が幾許もないことを不仲の母親から知らされたのも、ぜんぶ、春のせいにしてしまいたい。
海外ドラマ一気観、という真っ当な仕事にお勤めの方が聞いたら呆れるような趣味を謳歌しているのだが、ある程度偏向した集中力を持っていないと完走は難しい。人間が意識的に集中できるのはせいぜい90分程度だというから、すべて観ているようで、ところどころ抜けているのだろう。だからまた観たくなる。圧迫的に、麻薬的に。
趣味であるタトゥーやピアス、美容整形の話になると十中八九「痛くないの?」といった流れに、そして"no pain, no gain"理論(痛みなくして得るもの無し)に帰結することが多いけれども、「では、無痛であれば加速度的に手を加え続けるのか?」という話に持っていくと、たいていは座が痴れてしまう。少なくともその話題の上では、キレイな仕上がりは、本来不要なはずの痛みに耐えてようやく手に入るオプションか、あるいは戦利品でなければならない。
実際のところ、百貨店で数万円する美容液を買って顔に塗るより、2万円くらい握りしめてボトックス注射を受けるほうが「表情皺を失くす」という目的だけをみれば経済的負担は軽く済むし、結果も段違いに良い。そして、痛みは冷却で紛れてしまう程度だ。だからといって、効力を実感でき得る箇所へ、のべつ幕無しに打ちまくるのかといえば、断じてそれはしない。欲しい状態のための手順に痛みが伴うのなら、それを甘受する。それだけの話だ。痛みが軽く済むに越したことはないけれども、膚に針を刺されて何も感じないほうが、私にはとても薄気味悪く思えるし、察知すべき痛みに反応できないということは、皮膚感覚だけでなく、むしろ、心の働きの鈍麻を疑ってしまう。
あるいは、麻薬的という意味でいえば、別の痛みをマスキングするための痛みとでもいえば、もっとオシャレに聞こえるのだろうか。 古傷は治りたがるほど、その痛みを覚え続ける。見知らぬ痛みは恐ろしいが、痛みを知った証が古傷に宿るのだとしたら、どこへだって抱えていけるのかもしれない。薬などでは癒せぬ苦しみは厳然とそこにある。しかし私は、完治することのない片頭痛の薬を護符のごとく持ち歩き、安心を得ている。花粉で粘膜がむず痒くなるのだって、痛覚として感知されないレベルというだけで炎症していることに変わりなく、それを抗ヒスタミン薬で一時的に鎮めているに過ぎない。感じることを遠ざけている自覚がないから、痛みを伴うあれこれの話題にも食い違いが生まれるわけで、そんなに痛みを忌み嫌うのであれば、花粉の痒みを疎ましく思うのではなく、痛みを伴う重症のアレルギーでないことにまず感謝すべきなのだ。文頭で述べた「コミュニケーションの手続き」を省略しないのなら、双方の痛覚・あるいは不快感の捉え方をある程度予測して臨むのが、きっとスマートとされるのだろう。
余談だが、私が経験した痛覚のなかで最も強烈だったのは、肝生検だ。麻酔を打ってですらあの痛みである。刺されて死ぬのだけは絶対に嫌だと心から思ったし、刺殺事件の報道を見るたびに、沈黙の臓器が疼く。
人に刺されぬような振る舞いをより強固にしていこう、と静かに誓う春。
みなさまも邪気の回らぬよう、ゆめゆめ。
Shine on you.