2023/03/07

Maps


万物流転、諸行無常。
移り変わる景色の中にいても、ずっと忘れたくない。

私の心の奥のいちばん深い場所には、なにがあっても揺るがぬ思いがある。
物心がついたときからすでにそこにあって、私を衝き動かす源のような概念。
そして例え、その思いが私を蝕み滅ぼそうとも、私はそれを捨て去ることができない。
私が自分のことを私だと呼べる保証は、その思いにしかないと、どこかで考えているからだろう。
それさえ失わなければ、どんな変化もきっと怖くはないと。

実感を伴った言葉は記憶に残りやすいものだと云う。
ブリトニー・スピアーズは不敵な笑みを湛えながらそう歌った(かなり意訳です)。
あまりにも極端な分類だが、あながち間違いでもないとも思う。

自分はどちら側の人間なのだろうと、ときどき考える。
やっていることはほぼ見世物だが、立場としてはどうだろう。
限りなく傍観者に徹することへ安らぎを覚える自分がいる。
私はきっと、どちらでもあってどちらでもない。

境界線の上で、双方を繋げる通過点になって。

踊らされている人々の中から、意図を持って躍る人を
同じ孤独を分かち合える人を、探し出すような感覚。

これは持論だが、コレクターには2種類いる。
揃えたがる人(collector)と、補いたがる(corrector)人だ。
前者はこだわりが収集物にあるのに対して、後者の関心は限りなく個人へ向いている。
執着が対象自体にあるのか、対象に投影する自己にあるのか、という違いである。
そういう意味において私は間違いなくRのコレクターであると断言できる。
欠乏を満たせるのであれば、それに必要な要素の数や量、質や価値はもはや問題ではないのだ。

この癖が愛情に向いたとき、それは極限まで膨らみ、尖る。
柔らかく包み込むような温かさを求めながら、私の愛は相手を貫いてしまう。
自分がして欲しかったことを、相手にしているだけなのに。
相手の幸福を願うほど、私は欠乏していく。

そして、いつからか、私は欲しがらなくなった。

善いことなのか、不健全なのかは分からないし、それはこの際どうでもいいことだ。
ひとつ確実に言えるのは、私は以前より自分を生きやすくなった。
余剰が排出されるように、欠乏自体にもなにか意味があるのだ。
そこに宿る意味を、即座に埋めてしまおうとする前に考えたい。

歪で美しいこの世界を一瞥しながら。


この世界は美しい
私が思うよりずっと
あなたの見ている景色を、すべて
私の地図に描き加えたい




Shine on you.

弱虫の味

 
苦い薬をダイエットコークで流し込んだら
甘い囁きはセミダブルの向こう側へ

「一緒に眠ろう」 素直に言えたらいいのに

しょっぱい涙が止め処ない夜は
辛口で私のずるさをからかってよ




Shine on you.

2023/02/05

頒布用人格の形成と管理

  
同性婚に関する話題がホットですね。
加賀はいわゆるゲイの男性だけれども、ゲイライツ系の活動には消極的。
そういう活動は身綺麗な人がやるべきだと考えているから。

誰もがいろんな面を持っていて、人によって見せる側面を変える。

例えば私が持つ「ゲイの男性としての自分」は限りなく人工的で、後付け。
ゲイっぽい、とされる私の挙動や身体的特徴はすべて後天的に身につけたもので、
個人的には「葬式では神妙な顔をしておく」とか「入る店のドレスコードに従う」とか
そのあたりと同じようなレベルの教養でしかない。
メディアで見聞きするようなオネエ口調だって、私からすれば第二言語。
田舎の訛りを標準語に直す程度の楽勝チャレンジ。

私の付け焼き刃スキルは天稟なのだと思う。
大抵の他人からは「場慣れしてる」と言われ、さぞやその世界に染まっているのだろうと続く。
けれども、私には、なんにも染み付いていない。

こんな人間が、権利を勝ち取るという大義名分のもと更に擬態を重ねるのは
当事者への冒涜にしかならない。

実際、女性の権利向上を叫びながら女性を食い物にしている人間が
特定の政党との癒着や不正な資金の流れを指摘されグダグダになっているのが記憶に新しく
最近ではそれがトランス女性に飛び火して、各所でボヤ騒ぎになっている。
当事者意識のない者の声は、猿真似でしかないのだ。

自分はどこへいっても余所者。
私には少なくともその自覚がある。

自分を自分たらしめる力の源なんて、自分だけが分かっていればいいじゃない。




Shine on you.

2022/10/12

My life to envied.

どうもです。

「インドア派かアウトドア派か」なんて質問がありますが
どちらかに比重を置かなければならない訊き方をされると
質問が下手だなあ〜と思ってしまう加賀です。

どこか遠く知らない場所へ赴くことで、屋内で内省を重ねるよりも
生々しく自己を浮き彫りにさせる「外こもり」の概念なんて
彼らには一生かかっても分からないでしょうね。
人間嫌いだって、人間が生み出す活気を好んで街へ繰り出すことだってあるのですよ。

9月の私は、精神的にたいへん追い詰められていて、というか
いわゆる「処理落ち」状態だったと表現するほうが適切かもしれません。

死者を無事に葬(おく)ったかと思えば、生者は生者でいろいろなことを私に言い、
求め、私個人とは関係のない意図をもって私を動かそうとし、そして急かしました。

とにかく私は、祖父のいなくなった世界を、落ち着いて味わってみたかった。
彼がいたはずの未来、いなかったとしても、彼が繋いでくれた今。
私の中の男性性の欠片を作ってくれた人の気配を静かに感じたい、ただそれだけだったのに。

「すこし考える時間をください」と確かに私は明言したはずだけれども
伝わっていようがいまいが、態度はすべてを語りますから
言った言わない問題などもはや、取るに足らないお戯れ。

......葬儀の手続きを事前に進めておかなければならないと伝えただけで
「ご愁傷様でした」と一方的に死んだ形にされたこと。

......まったく心を許していない知人から「誰々から聞きました、ご愁傷様です」と
メッセージが届き、私の個人的な家族の事情が洩らされていると気付いたこと。

......いざ訃報が届いた際に「ほら、死んでいなかったでしょう。今死にましたが」と
母親とのやりとりを見せた後もなお、ビジネスの話を繰り広げられたこと。

......店舗から退く旨を伝えるやいなや、血相を変え「卒業パーティーを開こう」と
私が喪に服する余裕も考慮されなかったこと。

......私が主体となるはずの案件の話が私抜きで進められていて
待遇面での細かい説明もないまま、その選択を急かされたこと。

ひとつひとつは小さな違和感でも、これだけ重なってしまったら
さすがの私も疲弊するってもんです。剰え本人たちに悪意など微塵もないのですから。
「お前を利用して金を稼ぎたい」くらい直球できてくれるほうが
よっぽど手心があると私は感じたでしょうねw

心の中の夜叉が、静かに嗤った。
我が身可愛さを優しさで覆ったその顔を鏡で見られるか、と。

さあ、長年の加賀優作後援会会員のかたはご存知のことと思われますが
私の中の夜叉が嗤ったときの行動パターンはおおよそ2種類。
酒を飲みまくるか、旅に出る。
酒好きだった祖父への手向けにと、酒は浴びるほど飲んだので
私は新幹線に飛び乗り車窓から景色を眺めつつ、缶ビールを空けました(結局飲むんかい)

向かうは静岡県伊東市。加賀の逃避スポット。
緯度や地形というのは密接に関連があるのだなと訪れるたびに思うのは
熱海に差し掛かった瞬間に感じる、あの、なんとも言えぬ陽のエナジー。
熱海、伊東、伊豆。あの地域に満ちるなにかは、私の陰鬱を打ち消してくれる。

自分はなぜ海が嫌いなのか、そういえば真剣に考えたことがないなと気付いたのは
なんの躊躇いもなくさくさくと砂浜を歩き、海水に足を浸してから。
幼い頃に溺れたせいだと思っていたけれど、おそらく違う。
海へ来ると、泣いてしまうからです。

9月とはいえ、相模灘の波はまだ夏のまま。
寄せては返す波と通り抜けていく風に、私は
後生大事に握りしめていた悲しみをすべて、開放しました。

人間、本気で泣くとあんなに造作が乱れるものなのかと、ちょっとびっくり。
あんな顔、誰にも見られたくないものですね(笑)

ひととおり顔面を片付けて宿へ戻ろうとしていたところ、ふいに
なにか予感めいた、声のような、でも音声でも幻聴でもない、不思議な衝動を覚えます。
私は知っていました。これ、人生の大事な局面で必ずやってくるやつだ。
しかし私はまだこの「予感めいた衝動」の正体を知らないし
ましてやコントロールもできません。けれども
「このまま宿に戻るべきではない」「この道を歩いてみるべきかもしれない」と
ほとんどいざなわれるようにその衝動へ身を委せ
中心街以外の土地勘がほとんどないなか、するすると歩を進めました。

衝動の揺らぎが落ち着いてきたと思い立ち止まると、目の前には神社がありました。
ここは安産や縁結びの祈願で有名ではあるけれども、私になんの関係があるのか。
はて面妖な?ふと、振り返ると、ありました「予感めいた衝動」の発生源。
10メートルは優に超えるであろう、巨大なタブの木。





















で、でけえ〜!こんな大きいの見たことない!!
それもそのはず。

















市の天然記念物に指定されるほど、ここまでの巨木は珍しいとのこと。
そりゃあ、なにかが宿っても不思議じゃないよね〜と妙に納得。
タブの木に向き合い畏みて一礼すると、

「生きろ。」

声でもなく視覚的な文字でもなく、しかし確かにこの意味でしかない
パルスのようなものが、私の心臓の温かい部分と共鳴するのを感じました。

見抜かれていたのです。

正直なところ。
伊東へ来て、心が疲弊したままだったら。
海も空も風も緑も、色褪せているようだったら。
親切で温かい人の心にも、感謝の心を抱けなかったら。
今の生き方を諦めてしまおうかなと、ちょっぴり考えていたのです。

もうすこし、藻掻いてみろということね。

心の中の夜叉が、静かに目を伏せた。
分かればよろしい、と言わんばかりに。

ちなみに、折口信夫はこの木を招魂木(おがたまのき)と呼んでいたそうです。
どっひゃあ〜!

伊東という場所、私を見守ってくれる友人たち、力を貸してくれる大いなる力。
ありがとう、これしか言えない私をどうか許してほしい。

そして、しばらく逃避の旅はしませんっ




Shine on you.