2024/09/15

この文化、DNRですッ!

 (本文は2024年1月25日に会員限定コンテンツPatreonへ投稿したコラムを転載したものです。)


 満月前になると、過去の出来事をよく思い出す。

 思い出すというか、自分の意思とは関係なくプレイバック再生されてしまう、と表現したほうが適切かもしれない。こういう生業で生きていると、時折こうして、脳の誤作動が起こる。さっき蘇った記憶は、一昨年の冬ごろに一度だけ肌を合わせた男とのピロートークだ。なぜかその時期はお盛んというか、自らの技術に自信を失い、周囲に蔓延るマスキュリズムへ迎合せねばと不安に駆られていた時期で、不自由な思考回路に陥っていたのかもしれない。真っ黒ではないがグレーな歴史である。相手は、まあ、ゲイの理想型を模した似姿のような、どこぞの飲み屋で画像片手に自慢話でもすれば五、六分程度は座を支配できるような見てくれだったのだが、正直、いっときの空しさが埋められるのであれば誰でもよかったから、相手のヴィジュアル由来の昂りというのは、まったくなかった。マッチングアプリで募集をかけたら応答がきたので会った、ただそれだけの話である。内容は笑ってしまうほど散々で、まあ、ゲイタウンを根城にしている男にありがちな「相手でマスターベーションをするセックス」しか知らない類といったところか。エクスタシーはおろか安心感すら抱けぬまま、またつまらぬ者に身体を許してしまった......と後悔しつつ、やおら始まった独白に耳を傾けていたわけだが、彼の持論がなかなか興味深かったので紹介しておく。

 「ボス猿みたいに、俺より男らしい人には攻められたいが、そうでない者には攻めに回りたい」

 要するに、「俺はお前より上・お前は俺より下」と。ほう、これはこれは。また拗らせた男性性をひけらかしちゃって。私は生まれたままの姿で、失笑を堪えながら相槌を打つのがやっとであった。なんなら、ちょっとした腹筋運動すらできていたかもしれない。この人はテクでもトークでも意表を突く笑いをくれる。やはり、笑いは唯一の救いだ。だって、行動も論理もちぐはぐなのに、私は最後までこの人の独演に付き合えたのだから。

 まず、そもそも、きょうび、霊長類の研究分野において「ボス猿」という言葉は死語に等しく、彼の主張したいメイン箇所であろう最も偉いオス猿は「第1位オス」や「アルファオス」と表現されている。そして、オスは育った群れの中に骨を埋めることはなく、約3年の周期で別の群れへと移動を繰り返す。すべてのオスがアルファオスになったりそれを目指すわけではなく、順位は変動こそすれ、基本的には実力順というよりむしろ年功序列方式だ。ポイントは、同じ群れを維持しながら一生を過ごし、多数のオスと交尾をするのは、メス猿。つまり、彼の論理で話を進めていくと、彼自身のとっている行動は、悲しいかな、限りなく「メス的」である、ということになってしまうわけだ。残念でした。

 なにもわざわざ、猿の社会構造などを持ち出さなくとも、「強きには屈し、弱きには大きく出る」という姿勢を、なんの疑問も抱くことなくしたり顔で喧伝できてしまう時点で、誤解を恐れぬ表現をあえて使うことを女性読者各位にはご容赦いただきたいが、私からすれば「女々しいオカマ野郎」としか思えず、セックスをするためだけに特化させた家具配置のアパートで、「自らがいかに男らしいか論」を意気揚々と、格下であると認定したはずの私に説くさまは、なんとも哀れ(だって、その理論の正当性を担保させるのなら、自分より格上の男を説き伏せるべきでしょう?)というか、日本のゲイ文化の轍を創ってくださった先人たちには申し訳ないが、現行のゲイ文化と実社会の価値観、双方の致命的な乖離を実感せざるを得なかった。

 単純な疑問である: この人たちはあと何年、こんなことをやり続けるのだろうか?

 私などは早々に、この文化に踊らされるLのプレイヤー(player)からドロップアウトして、清濁がギリギリの秩序で拮抗することを願うRのプレイヤー(prayer)に移行したわけだけれども、この人たちは自己矛盾に疲れることがない。あるいは、そのように見えるだけで、うすうす勘付きながらも今更抜け出せないのか。その煮え切らなさが、ときどき羨ましくさえ思える。例を挙げだせばキリがないが、膚に瑞々しさを求めながら日焼けをし光老化を促し続ける、「オネエっぽく思われたくない」という恐れからくる不自然に強調された粗野な言動、「大切な人といつまでも一緒に」などと夢見る夢子節を嘯きながら健康寿命を縮める悪習慣(肥満・喫煙・飲酒、あるいは違法薬物使用)を改善しない、性的に求められたいがためにタンパク同化ステロイドを用いた結果、勃起不全や女性化乳房を併発し、それをカバーしようと勃起薬や抗ホルモン剤に頼り、さらに内臓を傷めるなど。私に言わせれば「あなたたち、一体何がしたいの?」という世界である。

 逆張りというか、それに抗うかのごとくサブカルチャーや高尚とされる文化に身を投じる者も散見されるが、これもまた私に言わせれば「あなたそれ、本当にやりたくてやってる?」的な印象である。実際、「純粋に好きで楽しい」という動機で粛々と打ち込んでいる方と比較してしまうと、その浅はかさたるや、覆うべくもない。

 もう言葉を選ぶのは止めよう。明らかに、病んでいる。

 これらの症例からも分かるように、「素直にゲイを楽しんでいるゲイ」は、もはや希少種となってしまった。ちなみに私は、捻くれてはいるが、病んではいない。屈折している自分のことが好きで、それを楽しんでいるからだ。十年くらい前ならまだ、ゲイバーやクラブに一人や二人そういうのがいて、悪い顔をしながらゲラゲラと美味しくお酒を酌み交わせたものだけれど。まあ、そりゃあ、私もあまりそういう場に出なくなるわけだよなあ。社会勉強としてたまに顔を出したりはするが、心躍る瞬間は、あんまりない。かといって、そういった要素をその場に求めることも、自らがその界隈でエンターテイン側に回ろうという気も、もはや湧いてこない。居合わせた座の役割として生贄的に道化を引き受けることはあっても、死にゆくものを無理やり延命させて年金が入る期間をちまちまと引き延ばしたところで、私に何のメリットがあるというのか。

 私はドクターキリコであって、ブラックジャックじゃない。ほんとうは、黙っていても守られ可愛がられるピノコになりたかったけれどね(笑)。運命は変えられても、運命そのものから抜け出すことはできないのだ。



 Shine on you.

2024/08/20

しょうがない自分


 スーツケースがすかすかだと落ち着かない。上からのしかからなくても閉まるということは、なにかを入れ忘れているということだからだ。心配性は荷物が多い。ならばあえてと、ミニマリストを気取って最低限の装備で出発すれば、あれがあったなら、これが整っていたなら、と嘆き、なんなら現地で買い揃える。強迫性障害とまでは言わないが、心の中だけのジンクスや儀式的行動は、私にとって重大な意味を持つ。 といいつつ「身軽でいたい」という考えが、ギチギチになった頭の片隅に萌芽する意味もまた大きい。それは日々の睡眠のように、ブラウザの再起動のように、記憶やキャッシュの整理は必要に駆られて起こるのだろうから。


 荷物も、そして才能も技術も、手にしていても意志をもって活用することがなければ、ただ重苦しいだけだ。

私がなにも意識せず手成りでやれてしまう作業が、もしかしたら誰かが喉から手を伸ばしてでも欲しがる才能であるかもしれないし、そして同じように、私が後生一生大事にしている矜持が、他人からすればちっぽけなプライドにしか映らないこともある。価値の主軸をどこに置くかで、自分の立ち位置も決まるのだ。


 「自分は運が良い」と明確な自覚がある人はあまり多くを変えたがらない、という説がある。平易にいえば現状をなんとかする力が強いといったところか。逆に、「運の良い人になりたい」ともがく人ほど、見境のないご朱印帳や肘まで連なるパワーストーン、自己啓発めいた上辺だけの言葉で身を固め、結局、周囲のなにかが変わってくれるのをじっと待っている。厳然とそこにいる「しょうがない自分」には一瞥もくれずに。ひとりではなにもできなくて、臆病で、暗い、でも希望が欲しい、そんなしょうがない自分とどうにかこうにか折り合いをつけていかなきゃ、すでにそこにある運にすら気づけないとは思わないだろうか。


 運が良いとされる人の特徴のひとつには「よくわからないものを見つけるのが好き」というのがあるそうだ。新規探求性と呼ぶそうだが、ネットの片隅で静かに発信している私を見つけて、こんなブログまで読んじゃっているたあなたは、相当、かなり、「運が良い人」だと私は考える。もちろん、その運が私自身と関連するかはさておきではあるけれども(笑)。





 Shine on you.

2024/06/27

傷だらけのダイヤ


 私の使う機械類はバッテリーの持ちが良い。というより、電力効率を肌で感じ取っていい塩梅に使うのが、人よりも多少上手いだけなのだが。スマートフォンなどに搭載されているリチウムイオンバッテリーの場合、過充電と過放電そしてパススルー(要は、100%まで充電せず、20%以下にさせず、充電しながらの使用を控える)にさえ気をつけていれば「電池持ちの良さ」は簡単に実感できる。「一度ゼロにしたほうが長持ちする」とか「100%にしないと容量が減る」とか、さも本当っぽい都市伝説をもって私の説明を遮る人がたまにいるが、おそらく彼らは高校で化学を学ばなかったか、すでに忘れてしまったか、目の前の現象にそれを見出そうとしないのだろう。

 このような、私より学歴もお育ちもよろしいはずの人の「ペーパースコアを実生活に落とし込めていない例」を見るのは、非常に歯がゆい。SEXを例にしても、摩擦係数、力の分解、動水圧の伝搬……と、物理の教養が詳らかになってしまう。剰え、私のようにポルノ出演の経験があると、「性のインプットがAVしかなかった人」や「多面的に肉体構造を捉えられない人」を前にして、「他者の興奮を誘うであろう動きが必ずしも自分の肉体にとって自然な動きとは限らない」という真実にそっと、神妙な面持ちでヴェールをかける場面が幾度となく訪れる。これは果たして、「夢を売る仕事なんてだいたいそんなものだ」と一蹴できるテーマであろうか?

 虚飾の鮮やかさは、それが紛い物(日常ではまず起こり得ない事象)であると認知され初めて輝きを得るのではないか。私が虚構を作るときにまず意識するのはそこだ。ほとんど一緒にして、少しだけズラす。このズレに、人は心酔し熱狂し、時には我を忘れる。そう。自覚のあるなしはさておき、なにが嘘か、ほんとうはみな頭では分かっているのだ。分かっているからこそ「AVの見過ぎなんじゃない」といった自己の性への類型化に迫るような指摘に苛立つし、その矛先を「水差すようなことを言うな」と幻影側へ向ける理不尽さにも憤るのだ。望まぬ誹りを受けるくらいなら笑ってやり過ごすほうが、お互いにダメージが少ない。私のような人間はずっと、嘘をつき続けてもお咎めなし、というわけだ。むしろ、ベラベラと真実を盾に開き直られるほうが迷惑なのだろう。

 対をなすのがこのいわゆる「ド正論」なのであろうが、きょうびはこちらを用いて通り魔的に冷や水を浴びせる動きを善とするような雰囲気が肌で感じられ、私は空恐ろしい思いでいる。かくいう私も正論パンチなどといって、馴れ馴れしく接してくる者に「あなたは無礼だ」と感想を告げることはあれど、二の句に生々しい真実の文言を追加する気などさらさらない。「お育ちが知れますね」、「インターネットに向いていないのでは」、「恥という概念が無いんですね」などと続けてしまった日には、瞬く間に私は加害者とされ血祭りに上げられることだろう。傍観者でいるために知恵が必要なのだとしたら、被害者になりきるのには狡賢さが要るのだ。真の弱点を隠しつつ弱さだけを燻らせることは、生存戦略的にかなりの高等技術だからだ。それは、鮮やかな嘘をつくのと同じくらいに。

 自らの歪さに酔い狂ってしまうより、互いに似通った表現型を探るほうが、社交としては平和的であるし、最終的に美味しい経験をしたり、面白い景色を眺める機会も増える。他人を道具や手段としてしか見なさないような者には、到底理解できない観念であろうが。

 友人の誕生日。変わりゆく浮世に、変わらぬ友情を願いながら。




Shine on you.

2024/05/13

いびつに咲く花


どうもです〜

先日、事故って盛大に壊れた愛機MacBook Airが、長い修理を経て帰還した。
それまでCDとSDカード読み取り専用機として所持している2011年製MacBook Proで代替していた
(動画や音声関連のアップが遅れていたのはそのせいなのでした。。)のだけれども
Mチップってやっぱりすごい!
んギガの動画もギュインギュイン処理してくれる。
こいつとあと5年は戦えそう。頼んだからね。

「自分は物持ちが良い」と長年思っていたし、その自覚も多少はあって
例えば、こういった機械類だったり、アクセサリーや服、賃貸契約に至るまで。
と言いつつ、なんか違うなとモヤモヤするものは、ただ来ては去る。べつに拒みも追いもしない。
恐らく物持ちの良さは結果で、私の特技は「しっくりくるものを維持すること」なのだと思う。

指輪は、いまでは製造されてない型番の品をずっと愛用している。
そりゃあ、買った当時は最新だったのだから当たり前の話だ。
ときどき、それに価値を見出す人が現れて、廃盤レアだとかいって譲ってくれと値踏みしてくる。
私はそういうとき、こいつケンカでも売っているんだろうか?と考えてしまう。

昨日は指輪を一斉リペアにだして、私の指は少しさみしいけれど
歪んだまま、そして歪んでいることにも気づかないまま使い続けて
ある日手の施しようがないほど破綻したとき、あのとき調整していれば、と後悔したくない。
人間関係も、そして同じように、並行してフラッシュバックする。

私と友人の付き合いを羨ましがる人が、たまにいる。
そんな友達いない、恋人とそういう関係になりたい、関係構築の秘訣は何だと
挙げ句の果てには「付き合えばいいのに」など、意図の分からない質問や期待の砲火を受ける。

あなたがたは腕に腕章でも付けた審査員で、私たちは何ですか?
あなたがたが想い描く理想型に倣った盆栽だか、和牛だか、宝石なんですか?
そんな気分になる。

歪んだ指輪は、ただ叩いて真円にすればいいってもんじゃない。
はめる指や使い方の癖で、いや、なんなら鋳造された段階で、どこが歪みやすいか決まるそうだ。
微妙なズレをあえて残すんだよ、という御徒町のリペアマンの呟きに深く納得したことがある。

他人とどこまでの仲になるのか、そんなものは、未知数なようでいて最初から決まっていると
考えたことはないだろうか。SFのような話で申し訳ないけれども。
きっかけはなんでもいいい。新品であろうと、歪んでいようと、はたまた整備品であろうと。
とにかく「この人とは続くだろうな」という勘は、信じておいて損はないだろう。

私は、誰かの関係者になれることに心が躍る。
しっくりくるまでお互いの歪みを確かめ合えるなんて、愛のなせる業だと思いませんこと?
少なくとも私は、そう思う。



Shine on you.