2024/12/29

Decorate Myself


 予期せず、顎にヒアルロン酸を注入した。
 2cc(シリンジ2本分)は凹みを平らにするような量ではないので、しっかりと造形もされている。顔というのは面白いもので、欠点で欠点を補っている顔立ちもあれば、各パーツに整合性を持たせることでより引き立つ側面もある。私の場合は、後者の要素が強い顔であるとカウンセリングで指摘された。左右差を解消したり、引き算的な考え方に固執していた私は目から鱗というか、「パーツが全部うるさいんだから、顎もしっかりあったほうが良いよ」と歯に衣着せぬご指摘をいただき、それもそうだわと承諾し、そうして仕上がった顔は、触ったのは顎だけなのに、2, 3割こましに見えるほど洗練されたんだった。顎ヒアルロン酸にはボトックスの併用が欠かせない。プロテーゼ然り、顎部への充填物はオトガイ筋の緊張による圧迫で、骨吸収の原因となるからだ。アデノイド顔貌からコーカソイド級のEラインを目指したようなレベルでなければ(とんでもない大きさのプロテーゼや大量の注入でなければ)特に気にしなくてよい、という説もあるが、異物で骨膜上に立体を作っていて、骨は圧力によって骨吸収を起こす性質があるのだから、骨生成にも少なからず影響はあるはずで、それは完全に無視できないリスクになり得ると私は捉えている。しかし私はその日はヒアルロン酸注入のみの治療で帰宅した。31日にHIFUによる肌治療を予定しているからである。筋膜層や真皮層に超音波で熱を加えるHIFUは、熱によって効力を失ってしまうボトックスを先にやってしまうと、2週間は施術を空けねばならなくなる。なぜ2週間なのかは不明だがそういうプロトコルなのだろう。同時施術やHIFU照射後の注入であれば問題はなく、というわけでこの日は全顔ボトックスも同時に予約していて、顎への注入ももちろん依頼してある。なぜ見切り発車的に顎の形成をやったのかと問われたら、もう、カッとなってやったとしか申し開きできないが、強いて言うのであれば、HIFUは頬や顎下の引き締めを得意とする機械であるから、下顎のシェイプが定まっていれば照射の算段も立てやすく、そして効率的に事が運ぶかも知れぬ、という期待があった、というところか。実際、輪郭形成用の製剤2ccがもたらす肉の移動や表情への影響は侮れぬものがあり、唇の位置が上がり、上の歯を見せる表情を作った際に寄るほうれい線も減るほどであった。そのぶん口角脇に追いやられた肉というか脂肪、所謂ポニョというやつだが、こいつを重点的に叩けばいいわけだ。

 私のような顔立ちは若干痩けているほうが収まりが良い。ふっくらとした健康的な肉付きを目指した時期もあったが、派手な目鼻立ちと見事に喧嘩してしまい、凋落したヴィジュアル系バンドマンのような印象になってしまった。不健康そう・妖しい・日本人離れ・蠱惑的。これらのイメージに寄せておけば、実際にそうかはさておき、美という認知はおのずと私に付与されるのだ。美しさなどという曖昧な概念と縁の深い我が人生を、抱きしめたいほど祝福したくなる瞬間もあれば、寝具を投げ出し寝付けぬほど呪う夜もある。見世物のさだめ。しかし私は、それを甘受する。

 今回お世話になったのは鼻の真皮移植をやっていただいたところとは別のクリニックなのだが、件の後、若干残った斜鼻(鼻筋が曲がっている状態)について相談したところ、「こんくらいなら僕は手付けないっていうか、逆にいじった感なくて良いし、いや、ましにはなると思うよ?けど何百万かけてもシンメトリーにはできないよ。真正面からまじまじ顔見ることなんかないんだから(笑)、気にしてるの自分だけ。人間は非対称性に可能性を見出すんだよ」との回答。入室早々「良い顔だねえ〜」と評してくるような先生だったので、贔屓目というか好みの系統の顔立ちにたまたま私がかすったせいもあるんだろうが、普段は苦手なはずの他人からの断定的な物言いに、私は不安が霧散するかのようなカタルシスを得てしまった。「左右差は良いものだよ、見る角度によって想像力を掻き立てられる。君面白いね。」これは私の顔の、先で述べた、欠点で欠点を補っている要素のひとつなのだと思う。

 この先生は「口周り絶対切ったらダメだよ。口角挙上、人中短縮、とんでもないよあんなの」と、顔にメスを入れることへの感覚が私と似ていて、それゆえにスッと意見に納得がいったのかもしれない。二重の左右差についても、「どうしても気になるなら今のラインと修正前のラインの真ん中くらいで埋没したら?3点くらいでガッツリ留めて。また切るかは取れたら取れたでそのとき考えればいいんだから」とあくまで低侵襲派。この先生は信用できる。そう感じた。ただ、忖度がないというか、顎への注入後、仕上がり確認の際の「ほら、顎に主張持たせて、唇でかい、鼻でかい、目でかい、額でかい、一貫性でたでしょ、外人だね」といった言い回しは、引き算整形の呪縛に囚われていた身にはボディブロウのように効いた(でかいでかい連呼しないでw)が、この先生の揺るがぬ哲学をそこに見た気がして、理不尽な暴力と、ツッコミとしてのドツきの明確な違いを再確認する機会にもなった。

 洒落のつもりだろうと、どんな事情があろうと、暴力はだめ。

 さてそんな大晦日から始まるビューティー休暇の前に、もうひとつイベントが待っている。

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2024/12/22

Alien(Not Alone)


(本文は、会員限定コンテンツPatreonへ投稿したコラムを転載したものです。
こちらの記事のレポート、旅ブログのような内容となっております。)

前夜: 
 台湾へ行くために荷造りをしている。
しかし、これを書いているということは、その通り、まったく作業が捗っていない。私はいわゆる荷造りと荷解きが苦手だ。数日の旅行でも、引っ越しかと思われるほどの荷物を抱え、しかも一度も使わぬまま帰宅したりする。自覚はしているが、心配性なのだと思う。備えあれば憂いなし、を地でいくタイプだ。

 そういった己の性質の問題より、むしろ、訪問する国の法律を心配する必要がある。
私はこんな涼しい顔で劇薬に指定されている薬を服用していて、その薬が、国によっては麻薬として規制されている場合があり、没収あるいは入国拒否となる。ひとつ海を越えれば、どこかの国では、私はドラッグ常用者扱いというわけだ。台湾は調べた限りでは厳しい規制はないようなので、怪しい行動さえとらなければ入国できそうである。

出発前: 
 荷造りは本腰を入れてしまったら意外とすんなり済み、私の心配事は「無事に飛行機へ乗れるのか」へと移行する。12時台の便だから、電車で行くと通勤ラッシュ真っ只中にスーツケースを引きずって乗り込むことになる。ここはおとなしく観念して、送迎バスを予約した。座って小一時間で到着。次からはずっとバスにしよう。遅刻という最悪ルートは回避したものの、早く着きすぎて時間を持て余すという、これはこれでモヤモヤする展開になってしまった。大きい荷物を預け、超過回避のために目一杯移し替えたショルダーバッグを抱えながら、羽田空港をさまよっている。日本の治安はかなり信頼されているのだろう、ベンチを全身で使って眠っている人がちらほらいる。スーツケースを5個も6個も従えて現れる旅行者は、どんな人なんだろう。ボロボロのリモワを滑らせる若者、どんな使い方したらそんな凹むのよ。日焼け止めを塗りたくるご婦人、充電エリアでの驚異的なタコ足配線、ハイパーインフレを起こしている飲食店。空港は日本であって、日本じゃない。そんな気がする。こちら側とあちら側を隔てるという意味では、ある種霊的な特異点ともいえるかもしれない。私はdepartureとして、あちら側へ行く。1時間の時差を越えて。

初日: 
 はじめての台湾はLCCで桃園空港だったが、今回はANA(正確にはエバー航空)で松山空港だ。お金の力ってすごい、機内食まで出ちゃって。だからといって滞空時間がどうにかなるわけではない。気圧の変化に弱い私は空中で軽く失神しつつ、朦朧としたまま入国審査をパスした。パスポートに捺された判を見て再認識する、ビザなしで90日間も滞在できるなんて。日本人の外面の良さはこういうところで効力を発揮するのだろう。
 違う場所に来たのだという感覚は肌と匂いで分かる。東京には東京の、台北には台北の、それがある。強いて言うなら、台北は伊豆半島に似ている。フィリピン海プレートがもたらす力かもしれない。旅は感覚でいけば事がうまく運ぶ、とは私の信念だが、感覚に身を委ねすぎるとときたま選択を誤る。ホテルへ向かうバスに乗車したつもりが、まったく真逆の方向へ向かう便に乗ってしまい、私はどんぶらこっこと桃園市まで運ばれたのだった。けっきょく桃園空港から台北市内へ向かうのと同じ手間をかけて、日没と共に滑り込みセーフでチェックインを済ませた。儲けるという意味において、日本も導入したらいいのにと思うのは、選択肢の多い交通系ICカードだ。キーホルダー状の品からキャラクターイラストやアイドル写真の特殊印刷が施された品まで、カードそのものに希少価値が付与されているのだ。まあ私などは、ハローキティの50周年限定カードとかいう製品にまんまと500元も支払い、それに加えほぼホテル籠りか会社の送迎で移動だというのに300元もチャージしてしまった。いいお客である。日本においては、ガジェット界隈で海外製品に対して必ず言及されるのは「お財布ケータイ対応か否か」という項目であるから、物理的なカードを何枚も持つより、一つの端末にさまざまな機能が凝縮されているのが好みなのか。PASMOも現在は無記名の物理カード販売を停止しているそうだから、この流れはより加速していくのだろう。理論的には、護符や呪符なんかもデジタルに置き換わっても発動する。ただ、物質的要素を排除しても、それがある・またはあったと仮想する脳の処理能力は相変わらず求められるし、なんなら負担が増す。私たち日本人は、疲れたいのだろうか。
 宿泊するたびに思うが、五つ星ホテルというのは、経費で落ちるとはいえ、身の丈に合っていないというか、むしろ「これだけの待遇を与えているのだから、相応な働きをしてもらうよ」という無言の圧力を感じる。まあ、その場に応じた態度や立ち居振る舞いを身につけることができるから、社会勉強にはなるのだけれども。予約名を告げた私は即座に日本人だと見抜かれ(おそらく漢字4文字だから)、なぜか芸能人と誤認され、写真を撮ってくれとスタッフたちに取り囲まれてしまった。日本にいても混血かどうか訊ねられるくらいだ、私のような北方系の顔立ちは南国では珍しいのだろう。雪で肌が灼ける国から、日差しで肌が焼ける国へ。私たちは似ていて、やはり違い、そして似ている。
 夕食は中山北路という日本人街の出店で軽く済ませた。チンホージャー(めっちゃ美味しい)!その胃の幽門も開かぬうちに、監督から着信、食事の誘いであった。彼女の独特の間にはいつも驚かされる。いわゆる「お呼ばれ」であることは承知の上で、私はのこのこと、これまた五つ星のレストランへ着いて行くのだった。後日台湾人カメラマンから教わったのだが、台湾の格言には「台湾で旅行者が太って帰らなかったら、それはもてなしが足りていないということだ」というのがあるそうだ。要するに、接待の際は極上の品をたらふく食べさせる。それだけ食文化に自信があるのだ。私は摂食障害を自力で克服したフードファイター、美味しいものを美味しく食べることにかけては天稟がある。福建と四川の融合だろうか、唐辛子と山椒の効いた赤いスープの海鮮鍋と、棗がゴロゴロ入った漢方牛肉鍋。台湾の海老は、このままアレルギーになって食べるたびにエピペンを使ってもいいと思うくらい美味しかった。瓶1グラス3の注文ミスで瓶3グラス1で来てしまったビールを飲みつつ、私はやんわりと本題に切り込む。数あるモデルのなかで私を呼んだからには、なにか底意があるはず、私になにをさせたいのかと。やんわりとを意識した割にはズバッといったなという感があるが、高額なギャラを約束されているわけでもなかったので、そこはある意味強気になれたのだと思う。彼女の意図を要約すると、AV女優をプライドパレードに参加させるための緩衝材としてゲイのモデルを使う、という実に戦略的なアプローチであった。切れ者とはこういう人をいうのだろうなと感じた。さて、そこで求められるのはショックアブソーバーとしての私の力量である。外見、態度、発言、思想、行動、そのすべてにおいて、日本と台湾、ストレート市場とゲイ市場、男と女、普遍と異端、自由と制約、権利とタブー、これら両天秤のボーダーラインを踏み外さぬように歩き切らねばならない。これはある意味禁じ手というか、私は「誰の敵にもならない道化た姿で、正論を坦々と言う」という方略で攻めることにした。頭の中で、持ってきた服たちを組み合わせ、髪のスタイリングをシミュレーションし、メイクの乗りを考慮して睡眠時間を逆算する。
 消化器と脳が各々の動きを粛々とこなすなか、私の心と身体はゲイストリートに連れ出されていた。カップルだろうか、男性二人が手を繋ぎ愛を囁き合い、キスをしている。セックスショップにするすると出入りする男女、一見、無法地帯特区のようにも思えるが、入国直後から感じていた「他者を排斥しない許しに似た温かい雰囲気」の答え合わせをしているような気分だった。自由。私は完全なる余所者の外国人として、それを誰よりも大きく思い知ったのだ。これも監督の狙いなのだとしたら、彼女には一生足を向けて眠れない。

2日目: 
 出役の朝は早い。パパッと済ませてハイいけます、なんてことはどんなに端役でもあり得ない。考慮されるかは別として、見てくれの準備それ以上に、心の準備が必要なのだ。私は夢も見ず3時間ほど眠って、するりと目覚めた。これはいわゆる臨戦態勢、数年に一度くらいしか発動させられない「鬼のコミュ力モード」が起動している証だ。眼光鋭く、人の心を読み、空気を察知し、適切な言動を提示し、ときには座を操る。私はこの力を、物事を良くする方向にしか使わないと決めている。この日はプレス向けに会場をまるまる貸し切って、会見をおこなう予定だった。入場するなりその規模に驚く。だが圧倒されてはいけない。席順の指示を受けると、4名の女優さんを私ともうひとりが固める形だった。これは差し込みの妙が試される布陣である。添え花がメインを食ってはいけないし、顔を潰してもいけない。プライドパレードの趣旨は昨晩リサーチしてあるし、性的少数者でもないAV女優がなぜプライドパレードに?そしてお前ら男二人は何者なんだ?おそらく記者たちが明確にして欲しいのはそこであろうと踏んで、あらかじめ回答は複数用意しておいた。
 詳細はYouTubeに上がっているのでぜひ本編をご覧いただきたいが、初めての公の場での露出にしては、なかなかいい流れやパスを出せていたように思う。会見の趣旨をこちら側が把握しきっていないというウィークポイントを、初めの段階で補強しつつ、私たちは境界線を引きに来たわけではない、という明確な意図も提示できた。なにより、誰かが期待する答えだけでなく、自分の意見を言うことができたのが、一個人として尊重されている実感があり嬉しかった。「外っ面のいい日本人気質」は、使いようによっては、ああいう立ち回りも可能にできるのだ。
 とはいえ、この会見によって追加の取材依頼が入り、当初予定していた九份ツアーをキャンセルせざるを得なくなったのは、すこし歯痒かった。

3日目: 
 会見後の接待ツアーでしこたま飲んでしまった私は半分二日酔いで、でも「鬼のコミュ力モード」は維持したまま眼を覚ます。台湾の酒は濃い。酒豪がやたらともてはやされる文化は、私にとっては好都合であったが、スタッフの皆さんに酩酊した姿をお見せしてしまったのが少々悔やまれる。すこし荒れ気味の肌をやや厚めに塗り衣装、いや装束をまとう。かなり緊張している。しかし頭では分かっている、ハラハラとワクワクは一緒のもので、主観的にどう処理しているかに過ぎないということを。だったらもういっそ、楽しんでしまおう。そう決めたのはいいのだが、山車に載ってからの記憶が途切れ途切れであまりない。コンドームを配るというなけなしの小技が、チーム全体に伝わり、みなセックス製品をPRし始めたのはひとつの成果かもしれない。気づくと裸だった。緊張と、想像を超える人の数と熱気と湿度で、私は段階的に服を脱いでいたのだろう。メタ視点を使う、私はどう見えている?よそ行きの顔つきになる。カメラに収められた私の姿はどれも遠い目をしていた。遠い目をするときの人は、内省している。私はなにを考えていたのだろう。ただ、大切にされる喜びを伝えたい、という意志は頑ななまでに通していたように見受けられる。それは、大切にされなかった経験がある人にしかできないことだと思うから。
 パレード後の熱気はそのままに宿へ戻り、シャワーで汗を流し、顔と髪を軽く片付けて小綺麗な服に着替える。絶対に打ち上げだろうし、私ひとりで五つ星だったなら、演者全員が揃えばお偉いさん方も登場してくるに違いないと読んだ。ビンゴ。オーナーやらそのパートナーが勢揃い、私はちょうど彼らの間にすこんと案内され、台湾式の飲みニケーションの洗礼を受けた。次々と出てくる高級な鉄板焼きは非常に美味だったが、私は彼らに対して粗相があってはならないという、パレードとはまた違った緊張で背筋が張っていた。私が猫背でなくなるのは、こういう場だけだ。幸か不幸か、私は顔に酔いが出ない。今回はそれが吉と出た。”Cheers”では少し飲み、「干杯」は一気飲みであると知ったのは、上物のワインをすべて空けてしまってから。私はお偉いさんから”You’re a good drinker!!”と、褒めているのか嫌味なのか解釈に苦しむ謎のお墨付きをいただき、二次会に連れていかれそうになるのを監督に引き剥がされ、ホテルへ運ばれる。
 解散がテキトーなのは台湾独特の感じなのだろうか、三人ずつタクシーに乗り込んだのだが、女優さん、そのマネージャーさん、私、という謎のリーベンレントリオができてしまった。運転手さんはもちろん台湾人である。私は助手席からあの手この手で指示を出すも、酩酊下である。こういうときは妙な勘がはたらくもので「酔っ払いだしちょっと遠回りしてやろうか」という意図を感じた私は、断固としてナビアプリを明示し続け、それを回避した。並行して台湾華語でなく台湾語の表現をいくつか出したのが効果的だったのかもしれない。その国を知るにはやはり、酒と言語だ。

4日目: 
 この日は15時に雑誌媒体の取材が入っていた。モーニングを済ませ悠然とコーヒーを啜っていたら、11時集合との連絡。嘘でしょ、あと40分もない。写真撮影ありって言ってたよね。あのときの瞬発力で身支度ができれば、日々はもっと暮らしやすいのだろうなと思う。記者会見のときとは少し趣向の違う、通訳さんを交えた対話形式での取材、「同性愛の男性として」という部分に強くフォーカスされた内容だった。そこでの回答がどこまで使われるかは分からないが、できるだけ正直に率直に、自分の意見も交えつつ答えたつもりだ。「なにを言わないか」のほうに意識が逸れてしまう悪癖が出ることもなく、のびのびと話せた。どれくらいのびのびとしていたかは、Instagramにアップしたグラビアアイドルを真似てふざけている動画をご覧いただければ一目瞭然である。
 午後からは完全にフリーで、私たち日本ゲイチームはホテルへ直帰。別行動タイムになった。異様に昂った新奇探索性はデーティングアプリを起動させる「これから会える人募集、私のホテルで」、即座に応答、目を見張る男前。セックスもそこそこに、お互いに意気投合。喋っている時間のほうが何倍も長く、そして楽しかった。私と同じ、キスをしながら喋るタイプ。笑窪が印象的な、かわいらしい人。連絡先を交換し、帰国した今もやり取りを続けている。ユーモアは言語や国を超越できるということを、再認識した。私のどうしようもないひねくれは、切り口をひとつふたつ変えればジョークに化けるようだ。しかしそれは、どんなに気軽な冗談も、洒落にならない悪口になってしまいかねないということと表裏一体でもある。言葉でご飯を食べている身として、深い教訓を得た。
 先約があると惜しみつつ別れた後は、別件で台湾に来ていた友人と合流し、士林夜市へ。彼とは「誕生日が一緒」というご縁でお付き合いが始まり、私がmixiで高二病を発症していた時期を見守ってくださった、人生の大先輩。彼がドラァグクイーンとしてALI PROJECTのライヴで妖艶に舞う姿を恍惚としながら眺めていた17歳の私へ、33歳になったら、ナイトライフをご一緒させてもらえるよ。
 西川口で育った私に耐えられないゲットーはない、と謎の自信を持っていたが、士林には日本のそれとはまた違った独特の寂しさや怨みのようなものが漂っているように感じられた。怒りとは違った、湿り気のある情念。単純に湿度が高いせいかもしれないし、歴史的な背景に由来するものなのかもしれない。いろんな顔立ちがあるのは、それだけいろんな血が交わり、そして流れたからだ。そういった台湾の暗部を、ナイトマーケットは忘れさせないようにしているんだろう。
 チャンポンせずビールだけで作られた心地よい酩酊のままホテルへ戻り、私は溜めに溜めた洗濯物をコインランドリーへ持っていく。洗濯をやりだしたら、それは旅行ではなくもはや生活なのではないか。私は長期滞在する先々でそう思う。洗濯と乾燥を待つだけの1時間。両替のために買ったコーラがまったく冷えていなくて笑ってしまったが、台湾では冷たい飲み物を飲むという感覚が一般的ではないようだ。基本的に冷やされていてもちょっぴり。氷水なんて注文しようものなら、でたよリーベンレンの意味わかんねえやつ、という奇異な目で見られる。
 深夜の街はひっそりと静かで、厚物はちょっと生乾きで、ゴキブリはナチュラルに大きく、歩道の謎の段差にコケまくり、原付に何度か轢かれかけながら、私はしっかり台北を歩いたんだった。オフ用に持ってきたスニーカーを一度も履かず、厚底靴で。

最終日: 
 帰りのフライトは夕方だった。それまで完全に自由時間だと高を括っていた私が急きょかけられる招集に焦る、これはもうこの旅のお約束だということで、私は最後の力を振り絞って荷造りを終えた。ほんとうに振り絞ってしまって、全員集合の食事会では、途中で寝落ちしてしまい、すこし無愛想に映ってしまったかもしれないのが申し訳ないが、あれは低気圧と「鬼のコミュ力モード」が尽きてしまった成れの果てなので、ご容赦いただきたい。帰りのフライトでは見事に失神。私に「快適な空の旅」が訪れることは未来永劫ないんだろうなと思う。耳抜き、とやらのコツが、私にはどうも掴めないのだ。監督を見送り、最終バスに乗った。自分の住む街まで直行便があるというのは、恵まれた境遇だと思う。何回も乗り継いでようやく、というコースを知っているからより強くそれを意識する。
 ”Counting your blessings” という表現、まあ「己がいかに恵まれているかを意識せよ」といった意味になるんだろうが、今回の旅で一貫して私の心の根底に巡っていた思いはそれだった。不幸を賢しらに語るより、発見した面白さを楽しむほうが良い。今回の計画に携われたことをありがたく、そして誇りに思う。そして同じように、私のアダルトのキャリアはひとつの集大成を迎えたのだとも思う。そんなことを書いていたら、占いのほうで大きなお仕事が決まった。古い友人が縁を繋げてくれたのだ。ここでも”Counting your blessings” が主題のように繰り返される。友は恵みだ、人はひとりでは生きられないのだから。たとえ失くしても、大切にすることを学ぶし、大切にされることを感じれば、誰かが大切にしているものも尊重できるんじゃないかな。なんて、理想を語ってみる。けれども、少なくとも私は、そういう人として誰かの目に映りたいな。




 Shine on you.

2024/12/08

ハート型に収まらぬ愛


 「なにもしない」をする、というのは言うは易しで、自ら望んでその状況に身を置いていないというのも相まって、非常に退屈である。
先日の暴行事件のショックも落ち着きを取り戻し、鼻の怪我の抜糸も完了した。私はやはり、逆境に強いのかもしれない。タダでは起きない生き汚さというか、生来の反骨精神が疼くのだろう。顔の腫れがするすると退いていくように、この見知らぬ痛みも、心から消え去ってくれればいいのに、などと感傷に浸るのもやぶさかではないが、90年代初期製造ロットがこの時代まで稼働すると、優先順位というものが変わってくる。哀れな被害者を演じて周囲の同情を引きサンクションを代理させる、なんて猿芝居で事がうまく運ぶのはせいぜい20代まで(まあ、20代の頃も私はずっとなにかと戦ってはいたのだが……)。「ドラマばかり引き起こしては話題作りをする人騒がせな人物」という烙印を押されないためには、みずからの手で落とし前をつけるしかないのだ。もちろん、水面下で。

 私は今回の出来事を悲観していないし、むしろ好機だとすら感じている。猫を迎えんと貯えてきた金がごっそり治療費へスライドし、その猫と破談になったことに関しては憂鬱を感じたが、こんなのは縁物だ。あの子とはご縁がなかった、それだけの話である。手鏡を見て、自分の似姿を抱き、築き上げた虚構に身を隠しても、自分の孤独から逃げず、友達を大切にしましょう。そういう教訓のようであった。

 こんなところには決して書けはしないが、得をした側面もあった。ハイリスクハイリターン、いや、ノーペインノーゲインというやつだろう。そのごく一例と言っては少々強引な気がするが、いわゆる恋愛運というやつが爆上がりしている。私が真っ先に不要と判断し諦め切り捨ててきた分野に、ものすごい高さの下駄が履かされてしまったようだ。どうせワンナイトで終わるだろうとのらりくらりとかわしていたつもりの殿方と意気投合。自宅に招きスコッチをやるような仲になってしまった。まだ本名も明かしていないのに、なんなら、整形していることも。打ち明ける間もない急展開だったといえば聞こえがいいが、適切なタイミングを逃してしまったのが正直なところである。とはいえまあ、本名はさておき、整形している云々など、関係していくうえで支障をきたす可能性がある場合、たとえば唇に硬めのヒアルロン酸を入れてしまってキスをするときの感触に違和感があるかもしれないとか、鼻水が垂れるのに気づかないのは鼻を整形したせいで冬は感覚が麻痺するからだとか、ボトックスを注射した直後だから今夜は一緒にサウナへ行けない、などなど枚挙に暇がないのだが、そういう際にさらりと発表してしまおうと思う。どうせ子を作ることも産むこともできぬ身体であるし、そういう性分だ。形質の遺伝的な心配などしなくてよいが、「天然モノだと思って購入したダイヤが実はラボグロウンでした」という事実に目を瞑ってくれる相手であることを祈るしかない。いや俺は100%天然でないとダメなのだと言われてしまったら、それまでの話である。

 どこまでを身だしなみの範疇として、どこからを整形と見なすのかは永遠のテーマであると思うが、まあ私などは骨を切ったり削ったり皮膚を剥いで入れたり抜いたり、「別人に変身するのではなくパーツを微調整しただけ」などとていのいい言い訳はできるけれども、首から上のパーツはすべて竣工し完了検査も通っている。自分でいうのもおかしな話だが、原型がひどく不細工だったと知らされるより、微妙に垢抜けるよう計算してやったと告げられるほうが薄気味悪いなと思う。だってそっちのほうがよりナルシシスティックというか、自己像への偏執性を感じる、まあ、実際そうだからぐうの音も出ないのだけれど。何に対しても無頓着でこだわりのかけらもない人間より、夢中になれる対象に全力で向き合える人のほうが、私の目には魅力的に映るのもまた、事実だ。

 みなさんには、譲れないこだわり、ありますか?
もしあって、それが他人を巻き込んで迷惑をかけることのないものであるなら、大切にすべきだと私は思う。




Shine on you.

2024/11/30

ダウンタイムは最高の内省時間


おしらせ

去る11月24日、暴力沙汰に巻き込まれてしまい
殴打による鼻骨骨折、左半身打撲を負い
現在、鼻の緊急再建手術を終えダウンタイムをとっております。

擦過傷による軟骨の飛び出しをなんとしてでも回避したかったため
商売道具である顔の治療を最優先としましたが
身体のほうは軽い脳震盪と打撲で済み
我ながら不幸中の幸いと胸を撫で下ろしております。

つきましては、顔をお見せする
鑑定・その他お仕事のご依頼に関しましては
お金を頂いておきながら醜い姿を晒すなど、言語道断ですので
誠に勝手ながら、(少なくとも)鼻の抜糸が済むまでは
受付を休止させていただきたく存じます。

なお、加害者に関しましては公表は控えさせていただき
示談も済んでおりますので
警察沙汰にするつもりはございません。
温かく見守っていただけますよう、ご配慮願います。

常日頃から懇意にしてくださっている皆さまには
多大なるご迷惑とご心配をおかけする形となり
たいへん申し訳なく、恐れ入りますが、ご理解・ご協力のほど
よろしくお願い申し上げます。


2024年11月29日 加賀優作




Shine on you

2024/10/17

connecting the dots, and the circle is complete


 点と点を繋いで、線を作ってきた。その線が結びついて、面ができ、それらはやがて折り重なって、新たな点を置く場所となる。
去年はフィクサー役に徹するかのような年だった。人と人の縁を結び、あるいは引き離し、自分の見栄など二の次にしていた。ただあらゆる場面において、そこに「きっかけ」という名の点を置くという作業だけは愚直に遂行した。月下美人の言い伝えのように、点には、繋がるタイミングと、ただそれを待つだけの時期がある。私はひたすら待ち、ときには促し、やがてその瞬間がきた。

 日本人のAVモデルとして、台湾のプライドパレードに招待されたのだ。
 アジア最大規模を誇るこの催しは、20万人もの同志が一堂に会し、マイノリティとしての権利を主張し、そして祝う。人に見せるほうのキャリアにおいて、これはひとつの集大成であると言えるだろう。素人投稿の延長で小金稼ぎをしているような連中とは違う立場なのだと認められ、私の貫いてきたエロスの在りかたが評価されたのだから。人の金で旅行だひゃっほーい、なんてお気楽な話ではなく(まあ正直かなり嬉しいが)、私にとって重要な意味を持つ滞在になるだろう。
 私の選択は、間違っていなかった。

 人を見るほう、占い師のキャリアにおいても、このように運を精製し手繰り寄せ、求むる現実を創りあげるさまを示せたのは、「占いや魔術は、単なるエンターテインメントではなく、人生をより良くする選択肢たり得る」ということを、この身をもって証明できた気がして、感慨深い。当たってるすごーい、なんて、AIにでもやらせておけばいいのだ。
 私は、あなたにとって正しい選択肢になりたい。

 私の太陽星座である牡羊座での満月の日に、この記事を投稿できることを誇りに思う。
そして、私を見守り支えてくださっている方々へ、深い感謝を捧げたい。ありがとう。

























 私は、ずっと、私です。


加賀優作




Shine on you

2024/09/24

decade, just decade


(本文は、2024年5月22日に会員限定コンテンツPatreonへ投稿したコラムを転載したものです。)


 12年前のいまくらいに、ASUSのラップトップを購入したのを思い出している。
 きょうびのコンピュータは、動画編集だのオンラインゲームだのと、よっぽどの処理を求めない限り、昔とそんなに変わらない。もちろん、ある一定のスペックを満たせば、の話だが。Windows7のZenbookだったかな。2回の修理を経てMacに乗り換える2019年まで現役だった。多窓癖のある私の酷使によく耐えた子だと思う。現役バリバリに稼働していた2014, 5年あたりは、風俗のシフトをほとんどゼロに減らして、占い館で受付とパワーストーンアクセサリー制作をしつつ、ゲイバーでバイトをしていた時期だ。労働というシステムにそもそも私が向いていないと気づくのはもっともっと先の話だが、いわゆる「昼職」というやつが持つ、縦にも横にも斜めにも、それこそ縦横無尽なしがらみにうんざりしていた。まあ、いわゆるブラック企業だったというのもあるが、それを差し引いても、朝7時に起きて1時間満員電車に揺られ、占い師さんたちの予約管理とアクセサリー制作を同時並行で進め、社長からは笑ってしまうようなパワハラを受け、引き継ぎもそこそこに先輩はどんどん辞めていき、同期は占いの心得も石の知識もなく、彼らが残した業務をやっつけるために残業をすれば、帰り際には定刻で切られているタイムカードを見て絶望し、その足でゲイバーのカウンターに立ち、怒りとも憤りともつかぬ感情たちを、酒を触媒に笑いへ昇華させ、酩酊で朦朧としたまま、また1時間地下鉄の旅。ここまでやって、手取りは雀の涙。ブラック企業の救いは高給、これ一点にあると思っていたのに、とんだ見込み違いだった。

 ここまで読んでいただたいた聡明な読者諸氏ならお気づきのことと思うが、私はマルチタスクというやつが非常に得意だ。
 まったく別の作業を同時並行的に、その質を落とすことなく進めることができる。とはいえまあ、機械と一緒である。どんなにハイスペックであろうとそのぶんの消費電力、この場合は体力か精神力か、いずれにしても疲れるわけだ。決して、自らの脳の情報処理能力の高さを誇示したいわけではない。そうでもしなければ、私は私を維持できなかったのだ。単に、生存戦略的に適応し続けた結果である。まあそのお陰で良い思いを一度もしなかったと言えば嘘になるが。これをしつつあれも忘れてはならぬと、3ヶ月で資金繰りから物件決め・内装工事・各種根回しや挨拶回りを済ませ自分のゲイバーを開店させたのも、おそらくその好例だろう。こういった手際は、傍から見たら鮮やかに映るのだろう、出資者は錬金術でも見たかのように目を白黒させて驚いていた。普通なら、バーをオープンさせるのには半年から一年はみないといけないのだから。しかし彼は、契約時私に提示してきた「出資者の存在は誰にも明かさない」という唯一の約束を「あの店は俺が出させてやった」と他店で(しかも私の古巣で!)宣い、自ら反故にして私の信用をすべて失った。いまは脱サラしてタイでホテル経営かなにかをやっているようだが、私は彼を一生許さない人リストの筆頭に書き記している。枕営業でもやったのかとか、パトロンが裏にいるから余裕だねとか、好き勝手言われ放題でも黙して堅固を貫く私を尻目に、彼奴は温暖なタイでシンハーでも飲みながら私の「有能さ」を愉しんでいたのだろうか。そう思うといまでも腑が煮え繰り返るようだ。まじないをかけて不幸を願う労力すら惜しいほど見下げ果てた人間だが、彼から唯一学んだことは、人の顔を潰すような真似は、それなりの覚悟をもってやるべきだということであろう。

 話が逸れてしまったが、奇しくも、ラップトップを買い替えるタイミングと人生の景色がクロスオーバーしているような気がして、これを書き始めたのだ。
 私はいま、占い館の受付係から占い師となり、パワーストーン制作どころか魔術までもおこなうようになった。身体を売っている感覚でしかなかったエスコート業は、時間を買っていただいているという考えに変わり、他人から性的な目線を向けられるのを恐れていた私はもう、どこにもいない。他人が金を払ってでも欲しがるものを私は生まれながら持っているのにも関わらず、それを活かしもしないで剰え疎ましく思うなんて、宝の持ち腐れだし、単純に、愚かだ。己の人生に対して注意散漫な者はするりと、まるでそれが正義の鉄槌かのように言い放つ、「お前は何も変わっていない」と。けれども、私はあまり気にしないというか、私を貶める切り札としては少々効力がないように感じる。どうぞ、あなたみたいな人は、激動の時代に呑まれて変わってしまっていけばいいじゃない。その暁には、「何も変わっていない私」が、もはや原型もとどめぬあなたを、あなただと認知して差し上げますよ。そんなことを、口にはしないまでも、頭の片隅のサンクチュアリに抱いている。

 私は、それを優しさと呼んで憚らない。
マルチタスクは内側でだって、できるのだから。憐憫の、別の呼び名として。




Shine on you.

2024/09/15

この文化、DNRですッ!

 (本文は2024年1月25日に会員限定コンテンツPatreonへ投稿したコラムを転載したものです。)


 満月前になると、過去の出来事をよく思い出す。

 思い出すというか、自分の意思とは関係なくプレイバック再生されてしまう、と表現したほうが適切かもしれない。こういう生業で生きていると、時折こうして、脳の誤作動が起こる。さっき蘇った記憶は、一昨年の冬ごろに一度だけ肌を合わせた男とのピロートークだ。なぜかその時期はお盛んというか、自らの技術に自信を失い、周囲に蔓延るマスキュリズムへ迎合せねばと不安に駆られていた時期で、不自由な思考回路に陥っていたのかもしれない。真っ黒ではないがグレーな歴史である。相手は、まあ、ゲイの理想型を模した似姿のような、どこぞの飲み屋で画像片手に自慢話でもすれば五、六分程度は座を支配できるような見てくれだったのだが、正直、いっときの空しさが埋められるのであれば誰でもよかったから、相手のヴィジュアル由来の昂りというのは、まったくなかった。マッチングアプリで募集をかけたら応答がきたので会った、ただそれだけの話である。内容は笑ってしまうほど散々で、まあ、ゲイタウンを根城にしている男にありがちな「相手でマスターベーションをするセックス」しか知らない類といったところか。エクスタシーはおろか安心感すら抱けぬまま、またつまらぬ者に身体を許してしまった......と後悔しつつ、やおら始まった独白に耳を傾けていたわけだが、彼の持論がなかなか興味深かったので紹介しておく。

 「ボス猿みたいに、俺より男らしい人には攻められたいが、そうでない者には攻めに回りたい」

 要するに、「俺はお前より上・お前は俺より下」と。ほう、これはこれは。また拗らせた男性性をひけらかしちゃって。私は生まれたままの姿で、失笑を堪えながら相槌を打つのがやっとであった。なんなら、ちょっとした腹筋運動すらできていたかもしれない。この人はテクでもトークでも意表を突く笑いをくれる。やはり、笑いは唯一の救いだ。だって、行動も論理もちぐはぐなのに、私は最後までこの人の独演に付き合えたのだから。

 まず、そもそも、きょうび、霊長類の研究分野において「ボス猿」という言葉は死語に等しく、彼の主張したいメイン箇所であろう最も偉いオス猿は「第1位オス」や「アルファオス」と表現されている。そして、オスは育った群れの中に骨を埋めることはなく、約3年の周期で別の群れへと移動を繰り返す。すべてのオスがアルファオスになったりそれを目指すわけではなく、順位は変動こそすれ、基本的には実力順というよりむしろ年功序列方式だ。ポイントは、同じ群れを維持しながら一生を過ごし、多数のオスと交尾をするのは、メス猿。つまり、彼の論理で話を進めていくと、彼自身のとっている行動は、悲しいかな、限りなく「メス的」である、ということになってしまうわけだ。残念でした。

 なにもわざわざ、猿の社会構造などを持ち出さなくとも、「強きには屈し、弱きには大きく出る」という姿勢を、なんの疑問も抱くことなくしたり顔で喧伝できてしまう時点で、誤解を恐れぬ表現をあえて使うことを女性読者各位にはご容赦いただきたいが、私からすれば「女々しいオカマ野郎」としか思えず、セックスをするためだけに特化させた家具配置のアパートで、「自らがいかに男らしいか論」を意気揚々と、格下であると認定したはずの私に説くさまは、なんとも哀れ(だって、その理論の正当性を担保させるのなら、自分より格上の男を説き伏せるべきでしょう?)というか、日本のゲイ文化の轍を創ってくださった先人たちには申し訳ないが、現行のゲイ文化と実社会の価値観、双方の致命的な乖離を実感せざるを得なかった。

 単純な疑問である: この人たちはあと何年、こんなことをやり続けるのだろうか?

 私などは早々に、この文化に踊らされるLのプレイヤー(player)からドロップアウトして、清濁がギリギリの秩序で拮抗することを願うRのプレイヤー(prayer)に移行したわけだけれども、この人たちは自己矛盾に疲れることがない。あるいは、そのように見えるだけで、うすうす勘付きながらも今更抜け出せないのか。その煮え切らなさが、ときどき羨ましくさえ思える。例を挙げだせばキリがないが、膚に瑞々しさを求めながら日焼けをし光老化を促し続ける、「オネエっぽく思われたくない」という恐れからくる不自然に強調された粗野な言動、「大切な人といつまでも一緒に」などと夢見る夢子節を嘯きながら健康寿命を縮める悪習慣(肥満・喫煙・飲酒、あるいは違法薬物使用)を改善しない、性的に求められたいがためにタンパク同化ステロイドを用いた結果、勃起不全や女性化乳房を併発し、それをカバーしようと勃起薬や抗ホルモン剤に頼り、さらに内臓を傷めるなど。私に言わせれば「あなたたち、一体何がしたいの?」という世界である。

 逆張りというか、それに抗うかのごとくサブカルチャーや高尚とされる文化に身を投じる者も散見されるが、これもまた私に言わせれば「あなたそれ、本当にやりたくてやってる?」的な印象である。実際、「純粋に好きで楽しい」という動機で粛々と打ち込んでいる方と比較してしまうと、その浅はかさたるや、覆うべくもない。

 もう言葉を選ぶのは止めよう。明らかに、病んでいる。

 これらの症例からも分かるように、「素直にゲイを楽しんでいるゲイ」は、もはや希少種となってしまった。ちなみに私は、捻くれてはいるが、病んではいない。屈折している自分のことが好きで、それを楽しんでいるからだ。十年くらい前ならまだ、ゲイバーやクラブに一人や二人そういうのがいて、悪い顔をしながらゲラゲラと美味しくお酒を酌み交わせたものだけれど。まあ、そりゃあ、私もあまりそういう場に出なくなるわけだよなあ。社会勉強としてたまに顔を出したりはするが、心躍る瞬間は、あんまりない。かといって、そういった要素をその場に求めることも、自らがその界隈でエンターテイン側に回ろうという気も、もはや湧いてこない。居合わせた座の役割として生贄的に道化を引き受けることはあっても、死にゆくものを無理やり延命させて年金が入る期間をちまちまと引き延ばしたところで、私に何のメリットがあるというのか。

 私はドクターキリコであって、ブラックジャックじゃない。ほんとうは、黙っていても守られ可愛がられるピノコになりたかったけれどね(笑)。運命は変えられても、運命そのものから抜け出すことはできないのだ。



 Shine on you.

2024/08/20

しょうがない自分


 スーツケースがすかすかだと落ち着かない。上からのしかからなくても閉まるということは、なにかを入れ忘れているということだからだ。心配性は荷物が多い。ならばあえてと、ミニマリストを気取って最低限の装備で出発すれば、あれがあったなら、これが整っていたなら、と嘆き、なんなら現地で買い揃える。強迫性障害とまでは言わないが、心の中だけのジンクスや儀式的行動は、私にとって重大な意味を持つ。 といいつつ「身軽でいたい」という考えが、ギチギチになった頭の片隅に萌芽する意味もまた大きい。それは日々の睡眠のように、ブラウザの再起動のように、記憶やキャッシュの整理は必要に駆られて起こるのだろうから。


 荷物も、そして才能も技術も、手にしていても意志をもって活用することがなければ、ただ重苦しいだけだ。

私がなにも意識せず手成りでやれてしまう作業が、もしかしたら誰かが喉から手を伸ばしてでも欲しがる才能であるかもしれないし、そして同じように、私が後生一生大事にしている矜持が、他人からすればちっぽけなプライドにしか映らないこともある。価値の主軸をどこに置くかで、自分の立ち位置も決まるのだ。


 「自分は運が良い」と明確な自覚がある人はあまり多くを変えたがらない、という説がある。平易にいえば現状をなんとかする力が強いといったところか。逆に、「運の良い人になりたい」ともがく人ほど、見境のないご朱印帳や肘まで連なるパワーストーン、自己啓発めいた上辺だけの言葉で身を固め、結局、周囲のなにかが変わってくれるのをじっと待っている。厳然とそこにいる「しょうがない自分」には一瞥もくれずに。ひとりではなにもできなくて、臆病で、暗い、でも希望が欲しい、そんなしょうがない自分とどうにかこうにか折り合いをつけていかなきゃ、すでにそこにある運にすら気づけないとは思わないだろうか。


 運が良いとされる人の特徴のひとつには「よくわからないものを見つけるのが好き」というのがあるそうだ。新奇探求性と呼ぶそうだが、ネットの片隅で静かに発信している私を見つけて、こんなブログまで読んじゃっているたあなたは、相当、かなり、「運が良い人」だと私は考える。もちろん、その運が私自身と関連するかはさておきではあるけれども(笑)。





 Shine on you.

2024/06/27

傷だらけのダイヤ


 私の使う機械類はバッテリーの持ちが良い。というより、電力効率を肌で感じ取っていい塩梅に使うのが、人よりも多少上手いだけなのだが。スマートフォンなどに搭載されているリチウムイオンバッテリーの場合、過充電と過放電そしてパススルー(要は、100%まで充電せず、20%以下にさせず、充電しながらの使用を控える)にさえ気をつけていれば「電池持ちの良さ」は簡単に実感できる。「一度ゼロにしたほうが長持ちする」とか「100%にしないと容量が減る」とか、さも本当っぽい都市伝説をもって私の説明を遮る人がたまにいるが、おそらく彼らは高校で化学を学ばなかったか、すでに忘れてしまったか、目の前の現象にそれを見出そうとしないのだろう。

 このような、私より学歴もお育ちもよろしいはずの人の「ペーパースコアを実生活に落とし込めていない例」を見るのは、非常に歯がゆい。SEXを例にしても、摩擦係数、力の分解、動水圧の伝搬……と、物理の教養が詳らかになってしまう。剰え、私のようにポルノ出演の経験があると、「性のインプットがAVしかなかった人」や「多面的に肉体構造を捉えられない人」を前にして、「他者の興奮を誘うであろう動きが必ずしも自分の肉体にとって自然な動きとは限らない」という真実にそっと、神妙な面持ちでヴェールをかける場面が幾度となく訪れる。これは果たして、「夢を売る仕事なんてだいたいそんなものだ」と一蹴できるテーマであろうか?

 虚飾の鮮やかさは、それが紛い物(日常ではまず起こり得ない事象)であると認知され初めて輝きを得るのではないか。私が虚構を作るときにまず意識するのはそこだ。ほとんど一緒にして、少しだけズラす。このズレに、人は心酔し熱狂し、時には我を忘れる。そう。自覚のあるなしはさておき、なにが嘘か、ほんとうはみな頭では分かっているのだ。分かっているからこそ「AVの見過ぎなんじゃない」といった自己の性への類型化に迫るような指摘に苛立つし、その矛先を「水差すようなことを言うな」と幻影側へ向ける理不尽さにも憤るのだ。望まぬ誹りを受けるくらいなら笑ってやり過ごすほうが、お互いにダメージが少ない。私のような人間はずっと、嘘をつき続けてもお咎めなし、というわけだ。むしろ、ベラベラと真実を盾に開き直られるほうが迷惑なのだろう。

 対をなすのがこのいわゆる「ド正論」なのであろうが、きょうびはこちらを用いて通り魔的に冷や水を浴びせる動きを善とするような雰囲気が肌で感じられ、私は空恐ろしい思いでいる。かくいう私も正論パンチなどといって、馴れ馴れしく接してくる者に「あなたは無礼だ」と感想を告げることはあれど、二の句に生々しい真実の文言を追加する気などさらさらない。「お育ちが知れますね」、「インターネットに向いていないのでは」、「恥という概念が無いんですね」などと続けてしまった日には、瞬く間に私は加害者とされ血祭りに上げられることだろう。傍観者でいるために知恵が必要なのだとしたら、被害者になりきるのには狡賢さが要るのだ。真の弱点を隠しつつ弱さだけを燻らせることは、生存戦略的にかなりの高等技術だからだ。それは、鮮やかな嘘をつくのと同じくらいに。

 自らの歪さに酔い狂ってしまうより、互いに似通った表現型を探るほうが、社交としては平和的であるし、最終的に美味しい経験をしたり、面白い景色を眺める機会も増える。他人を道具や手段としてしか見なさないような者には、到底理解できない観念であろうが。

 友人の誕生日。変わりゆく浮世に、変わらぬ友情を願いながら。




Shine on you.

2024/05/13

いびつに咲く花


どうもです〜

先日、事故って盛大に壊れた愛機MacBook Airが、長い修理を経て帰還した。
それまでCDとSDカード読み取り専用機として所持している2011年製MacBook Proで代替していた
(動画や音声関連のアップが遅れていたのはそのせいなのでした。。)のだけれども
Mチップってやっぱりすごい!
んギガの動画もギュインギュイン処理してくれる。
こいつとあと5年は戦えそう。頼んだからね。

「自分は物持ちが良い」と長年思っていたし、その自覚も多少はあって
例えば、こういった機械類だったり、アクセサリーや服、賃貸契約に至るまで。
と言いつつ、なんか違うなとモヤモヤするものは、ただ来ては去る。べつに拒みも追いもしない。
恐らく物持ちの良さは結果で、私の特技は「しっくりくるものを維持すること」なのだと思う。

指輪は、いまでは製造されてない型番の品をずっと愛用している。
そりゃあ、買った当時は最新だったのだから当たり前の話だ。
ときどき、それに価値を見出す人が現れて、廃盤レアだとかいって譲ってくれと値踏みしてくる。
私はそういうとき、こいつケンカでも売っているんだろうか?と考えてしまう。

昨日は指輪を一斉リペアにだして、私の指は少しさみしいけれど
歪んだまま、そして歪んでいることにも気づかないまま使い続けて
ある日手の施しようがないほど破綻したとき、あのとき調整していれば、と後悔したくない。
人間関係も、そして同じように、並行してフラッシュバックする。

私と友人の付き合いを羨ましがる人が、たまにいる。
そんな友達いない、恋人とそういう関係になりたい、関係構築の秘訣は何だと
挙げ句の果てには「付き合えばいいのに」など、意図の分からない質問や期待の砲火を受ける。

あなたがたは腕に腕章でも付けた審査員で、私たちは何ですか?
あなたがたが想い描く理想型に倣った盆栽だか、和牛だか、宝石なんですか?
そんな気分になる。

歪んだ指輪は、ただ叩いて真円にすればいいってもんじゃない。
はめる指や使い方の癖で、いや、なんなら鋳造された段階で、どこが歪みやすいか決まるそうだ。
微妙なズレをあえて残すんだよ、という御徒町のリペアマンの呟きに深く納得したことがある。

他人とどこまでの仲になるのか、そんなものは、未知数なようでいて最初から決まっていると
考えたことはないだろうか。SFのような話で申し訳ないけれども。
きっかけはなんでもいいい。新品であろうと、歪んでいようと、はたまた整備品であろうと。
とにかく「この人とは続くだろうな」という勘は、信じておいて損はないだろう。

私は、誰かの関係者になれることに心が躍る。
しっくりくるまでお互いの歪みを確かめ合えるなんて、愛のなせる業だと思いませんこと?
少なくとも私は、そう思う。



Shine on you.

2024/04/04

曇天、揺れるうたかた


どうもです〜

気づけば4月、時候の挨拶は好みではありませんが
東京はもう葉桜がちらほら。
基本的にインドアなので、外出の際は情報量に圧倒されます。

人には、あまり必要でない情報をキャセリングする機能が備わっていて
無意識のうちに最適化できる人もいれば、常時オン(またはオフ)の人、
自ら選択的に取り込む情報を調節できる人、いろいろなタイプがいますね。
その性質をどうこう説明したところで、薄ぼんやりとした共感を求め合うだけだから
心の中だけの不良性として外に出すことはないのですが。

桜って、言うほどキレイですか……?(爆)

こんなことを言ったら非国民扱いを受けそうな、と躊躇ってしまうくらい
「桜」はセンシティヴ・マターといいますか、気軽に苦手と言えない
花が担う概念として、「桜」は背負わされている荷が少々重すぎるのではないかと
同情めいた思いが芽生えるようです。
いろんなもののシンボルになっちゃうって、大変ですね。
下手なことできない!

個人的には、あの薄紅色とコンクリートの対比がどうも苦手で
「桜流し」なんていう雅な表現がありますが
降雨後の水溜りに散った花弁が密集している様は、いやにグロテスクに感じられ
そこに靴跡が付いていた日などは、忘れ去られた柘榴を見てしまったときにも似た
このまま酒でも飲んで憂さ晴らしをしようか、という気分になる。

なぜか、藤に対してはそういったノイズが比較的少なく、安心して鑑賞できるけれども
「色あひふかく花房ながく咲きたる藤の花の松にかかりたる。」と、枕草子にもあるように
藤も藤で、背負わされちゃってますね(笑)

「ただ在る」という現象に、美を見出しているのは、私たち。

電車に乗っていると、皆一様に携帯端末を握り締め、目を奪われている。
視覚はおろか、あるいは、意識さえも。
寝食を共にし、愛着のある色や形・象徴で飾り立て、片時も手放さない。
人によっては、現実とはかけ離れた状態で、共通の回路を持つ他者と通じ合う。

これはもはや、端末を依代とした、新たな信仰なのではないか。
そう思える瞬間がある。

ちょっと落とせば割れ、濡らせば動かなくなってしまうカラクリに
私たちは日常を、そして、個人的な情報の大半を委ねている。
例えば、恋に身を焦がし、端末を手繰り寄せては放り投げる夜
それに鳴ってくれと願うとき、それはもうただの機械ではない。
カラクリ、automatonの語源はギリシャ語のαὐτόματον(おのずから動くもの)

私たちは、現象に生命を見出しているのかもしれない。

花鳥風月から美を感じ取るのと同じように。



Shine on you.

2024/02/06

麻薬としての夢

 
「あなたにとって愛とは?」というパーソナルな質問をときどき受ける。

愚問!と一蹴していた時期もあったが、人間というのは他人の反応によって
自分自身のことを知りたがる、たいへんめんどくさい生き物であるから
質問に対してはできる限り、私なりの言葉に置き換えて答えるようにしている。
愛に迷える人とは、共に方略を考えたい。私自身もそうであるように。

愛については、「さみしさに似た喜び」と形容することにしている。
誰かに語った身の上話が「愛のなせる行為だ」と評されるとき
すべてのエピソードに必ずその感覚が伴っているからだ。
わざわざ鷹の目で、人との関わりの中にさみしさや、剰え
そこへ喜びを見出そうとしているわけではないが
誰かを真剣に思うとき、私の心はすこしさみしくて、そして喜んでいる。
心は脳にあるはずなのに、胸の少し左、心臓のあたりが昂るのだ。

自分の名前を自ら検索し、他人が自分について言及しているさまを調べることを
エゴサーチ、略してエゴサと呼ぶが、私はエゴサを頑なにやらない。
「こんなこと書かれてますよ」と告げ口をしてくる者とも、距離を置いている。
検索せねば出て来ぬ話なぞ、醜聞と相場が決まっているし、実際そうだからである。

しかし先日、私はその禁を破り「加賀優作」という文字列を検索ワードにしてみた。

そもそも私は「キャラを作り演じる」という底意のもと活動している人間ではないし
大抵の日常や変わった話などは、このブログや各種媒体で発信しているためか
予想に反して大した悪口は書かれておらず、まあ
取るに足らない憶測が飛び交っているだけであった。

と同時に、予想を裏切らずしっかり現存していたというか
「よくもまあ何年も飽きずに私への執着を持ち続けていられるものだ」と
逆にこちらが感心してしまう女性が1名いる。いや、まだいた。
そこから私を知り鑑定に来てくださった方もいらっしゃるので
いまとなっては、なんならむしろ、感謝しているくらいだ

どんな風に書かれているかなど、無意味なのでここには記さないが
文章構成や妄想の結びつけ方、それを書き起こさんとする異様な過集中ぶりから
彼女が、いわゆる「頭がお気の毒な方」であることは一目瞭然であり
先述のとおり私は、外野から自分がなにを言われているのかに、まったく興味がないため
粘着されるに至った経緯はよく分からないのだが、おそらく元恋人と破局を迎えた
2021年あたりに「見つかってしまった」であろうと思われる。

私と共に彼女からの中傷を受けていた知人による情報提供で
顔や名前などの個人情報はいちおう、把握しているのだが
いかんせん陽性症状MAX「無敵の人」であるから、被害届も受理されないし
多方面からの訴えも徒労に終わるだろう。
そして、ああいう類の人間には魔術が効かない!

守るもの・失うものがない人って、ほんとうに、無敵なのだ。

月日は平等であるから、こちらも三十路を超えいい歳になると心持ちも変わる。
確かに、3年に渡り、根も葉もない妄想で私を貶めんとする彼女の行いは、悪質である。
だが、彼女だけでなく、彼女があのような精神状態に陥っても、なお
アクセスができてしまう、このインターネットにも、問題があるのではないか。
いまの私には、そう思えてならない。

私への誹謗中傷に時折、ほんの少しだけ混じる、彼女のノイズからは
潰えたであろう夢や、あるはずだった未来への悔恨が見受けられる。
あるいは、なりたい者になれなかった絶望、過ぎゆくがまま堰き止められぬ有限の時間。
正気まで失うくらいだ、さぞや無念であったことだろう。

「あなたにとって愛とは?」と、彼女に質問してみたくなる。

GACKT氏との妄想結婚を発表し、炎上した女性が記憶に新しい。
あの手の話題はもはやお察しというか、あんまり触れてやるなよという世界である。
文章構成はガッツリ「頭がお気の毒な方」のそれであったし(なぜああも似通うのだろうか?)
花嫁を示す欄に、GACKT氏の名が記されていたのには思わず失笑してしまったが
彼女の過去の投稿や、偽造された婚姻届の筆跡を見る限り、まあまあ
お育ちはそこまで悪くないというか、ある程度の教養はあったのかもしれないと感じた。
愛するがゆえにか、狂いゆく道すがらGACKT氏に出会ってしまったのか。

いずれにしても、ちょっと昔なら即刻、座敷牢に放り込まれるような者たちである。
哀れなものよ。

これは、あくまで個人的な見解だけれども
「いままでやってきたことにはなんの意味も価値もなかった」
悟ってしまったとき、人は狂うのだと思う。
そして、妄想を繰り広げ他者を攻撃することによってもたらされる、ドーパミンの快楽に耽溺する。

私を中傷する者は、加賀優作という麻薬の快楽に夢中になっている、というわけだ。
そして同じように、この世がおかしくあり続ける限り、私の違和感もまた、輝き続ける。

失礼な人を、正当防衛の名の下にこきおろすのが大好きな私としては
明日は我が身である。くわばらくわばら。




Shine on you.

2024/02/04

運命の五叉路

 
ここ以外の場所はなんだか

巻き戻してる映画だってひとり頷く

あと一歩前へ進めば分かるの?

それともあと一歩退がればいいの?


これは音楽ユニットglobeの「とにかく無性に…」という曲の一節だが

初めてこの曲を聴いたときの、これまでの人生の違和感が言語化されるかのような

カタルシスめいた感覚が忘れられない。

いまでも聴き返しては、その余韻に浸るほどだ。

ここまで書くとほとんどネタバレだが、映画「メメント」を観た際にも

同じような衝撃を受けた。


「とにかく無性に…」のリリースは2000年6月14日、そして

「メメント」の公開は2000年9月3日(日本では2001年11月3日)であるから

当時のエンターテインメントには「洗練と退廃の90年代の集大成」的な

雰囲気が醸成されていた気がする。あくまで、9歳10歳のガキんちょの体感でしかないが。


過去と、その連続性としての現在と、見え透いているようで不確定な未来。


宇宙の最高傑作こと、お花畑スピリチュアル界隈の方々が擦りに擦り尽くしている鉄板ネタ

「引き寄せの法則」も、よくよく紐解いていくと、実際にやらんとしているのは

引き寄せることではなく「現在の軌道を微調整していく」作業と言えるだろう。

望む未来を口を開けて待つのではなく、自らをその未来に寄せていくというわけだ。

このあたりの綾を分かっている人とは、畑違いでも話が弾む。


ところで、聡明な読者諸氏は「願いが叶いやすい人」と「叶いづらい人」の違い

あるいは、「運がいい人」と「運が悪い人」の違いと言い換えてもいい。

これをご存知だろうか?


答えは実に単純明快なのだが、人間は迷う生き物である。

迷っているときに人生に関わる大きな決定は下さぬほうが良い。

私が32年の人生経験において得た教訓のひとつだ。


答えはPatreonか、鑑定で。





Shine on you.

2024/01/30

"Be strong, Mitsuko."


 「他人は見たいものしか見ない」

言わずもがなというか、当たり前の真理であるので
いつしか私は「見られてもいいものしか見せない」という選択をするようになった。

とはいえ、思い入れのある事柄へ軽率に言及されたり
手間暇をかけて作り上げたものを乱雑に扱われるのは
悲しいというか、ただただ空しい。

つい先日は、Instagram上で、課金プラットフォームPatreon登録者限定と銘打って
ライヴ配信を試みたのだが、私にとってはまさに試金石というか
「誰が真のファンなのか」でなく「誰がファンの皮を被ったフリーローダーなのか」
それをハッキリと炙り出させる回であったと言えるだろう。

ログを残さなくともアーカイヴは残り、そこからダウンロードすればいいだけの
シンプルな作業であったのだが、みなさまご存知の通り、私は性格が悪い故
私をオモチャにしてくる人らで、逆に、遊んでみたくなった。

「見られてもいいものしか見せない」を一瞬だけ、解いてみたわけである。
「これは誰にでも見られていいものではないですからね」という内容で。

まず、事前告知の段階で「後援会(便宜上そう呼んでいる)限定」と銘打ったうえで
開始時刻のアンケートをとる。この時点で、反応した非会員をすべてマークする。
なぜなら、彼らのために催すイベントではないという自覚がない・または
そもそも文字を読んでいない=今後、私の発信するコンテンツが響かない。
という評価ができるからだ。

そして、約1時間の配信の随所に、古くから「加賀優作後援会」と呼ばれている
いわゆる「分かっている方々」への言及を散りばめる。
これはデコイでもなんでもない、純然たる本心からくる感謝の表明である。

今回は外国人へのアプローチは不要であったので英語は用いなかった。
なぜなら、彼らはすでにフリーローダーでしかないと実証済みであるからだ。
得体の知れぬサイトで無賃視聴したAVで昂り、私の発信を読み取ろうともせず
私のホームゲームにズカズカと土足で踏み込み独自のルールを主張してくる。

ニコニコと愛想を振り撒くおすまし人形、彼らにとって私はそれ以上でも以下でもない。
けっきょく、「好都合なエロいアジア人」でしかないのだ。


彼らに期待することなどなにもない。時折垂れ流してやる用済みの切れ端を
後生大事に、味のないガムのように、ただしゃぶり続けているがいい。
私は、そういう連中の、日本人バージョンを突き止めたかった。

 もう、私を値踏みする人間に蹂躙されるのは、うんざりなのだ。

とにかく、あの配信の内容をまともに聞いていたならば
私を支えてくださる方々や、私への敬意が一欠片でもあったならば
「非会員なのに視聴できている状況」に疑問を抱くことなく
いいねを押したり、ましてコメントやDMをするなど、できるはずがないのだ。
即刻削除しリロード不可能、というアリアドネの糸まで垂らしたにも関わらず。

「アップされてるー見ちゃお」程度の動機であったかもしれない。
持ちうる限りの性善説をもってしても「限定なのに上がってる加賀さん優しい~」が限界だ。
あるいは、それにすら考え至ることなく肌色に目を奪われていたのか。

最初の真理に戻るが、「他人は見たいものしか見ない」。
これに基づき、私は断腸の思いで、見てほしくない他人を遠ざけた。
「私が見たい人」だけを残したわけである。
遠ざけた人の中には、長期間フォローしている人も含まれていた。
だが、それが、何だというのか?
悪意のあるなしなど、この段階では、もはや、なんの意味も成さない。
真意を汲み取ろうとしない、説いても聞かない、禁じても止めない。

正直、迷惑である。
1時間15,000円で顧客と向き合う私にとって、それは、看過できぬ営業妨害なのだ。

私は、伊達や酔狂で、偽名を名乗り、私生活を犠牲にして
全世界に生き恥を晒しているわけではない。
ここで「なぜそこまでして?」と思った者は、勉強不足だ。出直せ。
私はいたるところで、ネット上で存在し続けようとする目的について語っている。

占星術の観点でいうと現在は、過去に別れを告げる者と、未来を創る者が交差する時期にある。
私のような個体は、その両者の流動性を確保する役割を担う。

芸事に気儘は、困る。それは私も、フリーローダーも同じこと。
私は、自らの専門分野に関してはいつだって本気だ。
なぜなら、それらがかろうじて、実体のない私を、私たらしめているからだ。
気儘にやっている片手間な奴らを、ひとりずつ引っ叩いて回りたいくらいである。

私は、あいつらの、暇潰しじゃない。
ゆるいとおせ。

余談だが、唇の形態が怪我によって崩れてしまった旨の投稿をして
それをヒアルロン酸注入で補い「薄くなっていた唇に厚みが出て嬉しい」
と語ったことがある。
その直後に自称ファンから言われた言葉が、いまでも忘れられない。

「加賀さんのその、うっっっっすい唇が好きです!」

 ね。馬鹿馬鹿しくなってくるでしょう?




Shine on you.