2025/05/03

So do I

 
 自分は、どうしてこんなことをやっているんだろう。
ときどき真剣に考え込んで、思索のツアーを組んでしまう。時期を間違えると「ハイ、だめ。もう、人生無意味。酸素使ってうんこ作るだけ!死の死の!!」と躁転して越えてはならない一線に足を踏み入れそうになるので、注意が必要だ。

 人前で裸になるのが嫌で嫌で仕方がなく、学生時代はプールの授業を仮病まで使ってサボるほどだったのに、大人になったいま、ギャラが出るならエンヤコラと脱げてしまえるのは、なぜなのか。
 吃音を揶揄われ、人前で話すことすら避けていたのに、いまや人と喋ることを仕事にしてしまえたのは、なぜなのか。
 自己紹介すらまともにできない、というよりやりたくもなかったのに、みずからの人生の切れ端を公に発信することへなんの抵抗も感じなくなったのは、なぜなのか。

 「自分を愛せるようになったから」とか「苦手を克服したから」とか、そんな生易しい概念では説明できぬ私の動機たち。少々エモーショナルな担当セラピストは「加賀さんは世の中に絶望していたのですね」と一言くれたが、膝を打つまでのカタルシスは覚えなかった。世界を疎む暇があったら、運命を変えればいいだけの話ではないか。私はただ、助けや施しを期待しながら、いつまでも口を開けて呆けているような、哀れな人でいたくなかっただけなんだと思う。とはいえ、それは魔術と同じように、思い描いたビジョン通りに事が運ぶと、喜びより「ほらね、見たことか」という屈折した感情が溢れる。サモスのアリスタルコスも、現代の天文学を見たら同じように感じるだろうか。私は「正当に評価されない不条理」を胸に秘めながら、三角法で運命の場所を測る。そうなると私はやはり、私を取り巻く世界の一部を、憎んでいるのかもしれない。

 私が私のままでいられたとおぼしき記憶は時間としてではなく、場面としての断片的なものに過ぎない。
思い出だけではつらすぎる、とはよく言ったもので、私はトラウマタイズドな記憶は容易に思い出すことのできない脳のストレージの深い場所に置いてきてしまって、おめでたい場面だけが鮮明にサルベージされる。酒を飲んだり瞑想をして意識を変性させれば詳らかに再現できるが、それをしたところでなにが変わるというのか。「X年後に開けてください」と記され封印してあるタイムカプセルを無視し、暴いているような気持ちになる。自己愛だの自己肯定感だのといわれる感覚を保ちたいのなら、思い出したくもない過去の存在を、それについて考えたくもないと感じる自分の心の秤動を、記憶の深層に仕舞い込んだ必死さを、まず認めること。そして、何事もなかったかのように振る舞えてしまえる異常性に気づくことが、何よりの武器になるのではないだろうか。そもそも、過去と対峙せねばならない場面なんぞ、放っておいても遅かれ早かれやって来るのだから、そのXデーに備えて、へこたれない生き汚さを磨くほうが、すでに空いている心の虚を塞ぐよりも、私には手っ取り早い。

 「愛は忍耐」という言葉はまことであったと、猫を迎えてから心底思う。
私は待つのが上手いし、「待っている顔が好きだから遅らせたくなる」と愛を囁かれたこともあるから、認知の歪みの収差はそんなに大きくないのだろうと予想する。おのずと、急かすことに振った行動は苦手になるし、「マイペースなくせに他人をせっつく人」とは、どうしても馬が合わない。鋭く尖りながら「その時」を待つ愛。ここだけはいくつになっても、きっと丸くなれない。ちなみに猫との関係は、極めて良好である。

 そういった私の不良性を認めてもらえる場所が、新宿にある。私などまだまだだなと思うくらい、一癖も二癖もある人(もちろん良い意味で)が集うカフェバーだ。
 この度ご縁があり、そのお店の定休日を間借りさせていただき、約7年ぶりに占いバーMAGICを復活させる運びとなった。現時点では5月7日(水)だけの予定だが、感じをみて隔週にするのか、週1にするのか、月1でいくのかを決めていく感じになる。いずれにしても水曜日は固定になるだろう。私としては「水曜日の子は悲しみでいっぱい」なんて言わせぬほどの勢いで挑むつもりでいる。
 26歳の私は占いと接客の両立でつまずいてしまったけれども、34歳になった今なら、少しは上達したお席あしらいを発揮できるかもしれない。

 あなたとお会いできたら、それは幸甚の極みである。







Shine on you.


2025/04/04

same pain, strange pain


 春に人の気が狂うのは、なぜなのか。

片頭痛薬の効き始めを体感しながらぼんやりと思う。「花粉すごいですねえ〜眠いしもうなんていうか、春眠不覚暁?」などと雑な世間話をしていると、いつの間にやら目頭の裏側がムズムズする体質になっているように、コミュニケーションの手続きを省略すると、そのツケでも回ってくるのだろうか。(私との事案では2回目の)措置入院から舞い戻った心を病んだ近隣住人が数日もせぬうちに再逮捕されたのも、祖母の余命が幾許もないことを不仲の母親から知らされたのも、ぜんぶ、春のせいにしてしまいたい。


 海外ドラマ一気観、という真っ当な仕事にお勤めの方が聞いたら呆れるような趣味を謳歌しているのだが、ある程度偏向した集中力を持っていないと完走は難しい。人間が意識的に集中できるのはせいぜい90分程度だというから、すべて観ているようで、ところどころ抜けているのだろう。だからまた観たくなる。圧迫的に、麻薬的に。


 趣味であるタトゥーやピアス、美容整形の話になると十中八九「痛くないの?」といった流れに、そして"no pain, no gain"理論(痛みなくして得るもの無し)に帰結することが多いけれども、「では、無痛であれば加速度的に手を加え続けるのか?」という話に持っていくと、たいていは座が痴れてしまう。少なくともその話題の上では、キレイな仕上がりは、本来不要なはずの痛みに耐えてようやく手に入るオプションか、あるいは戦利品でなければならない。

実際のところ、百貨店で数万円する美容液を買って顔に塗るより、2万円くらい握りしめてボトックス注射を受けるほうが「表情皺を失くす」という目的だけをみれば経済的負担は軽く済むし、結果も段違いに良い。そして、痛みは冷却で紛れてしまう程度だ。だからといって、効力を実感でき得る箇所へ、のべつ幕無しに打ちまくるのかといえば、断じてそれはしない。欲しい状態のための手順に痛みが伴うのなら、それを甘受する。それだけの話だ。痛みが軽く済むに越したことはないけれども、膚に針を刺されて何も感じないほうが、私にはとても薄気味悪く思えるし、察知すべき痛みに反応できないということは、皮膚感覚だけでなく、むしろ、心の働きの鈍麻を疑ってしまう。


 あるいは、麻薬的という意味でいえば、別の痛みをマスキングするための痛みとでもいえば、もっとオシャレに聞こえるのだろうか。 古傷は治りたがるほど、その痛みを覚え続ける。見知らぬ痛みは恐ろしいが、痛みを知った証が古傷に宿るのだとしたら、どこへだって抱えていけるのかもしれない。薬などでは癒せぬ苦しみは厳然とそこにある。しかし私は、完治することのない片頭痛の薬を護符のごとく持ち歩き、安心を得ている。花粉で粘膜がむず痒くなるのだって、痛覚として感知されないレベルというだけで炎症していることに変わりなく、それを抗ヒスタミン薬で一時的に鎮めているに過ぎない。感じることを遠ざけている自覚がないから、痛みを伴うあれこれの話題にも食い違いが生まれるわけで、そんなに痛みを忌み嫌うのであれば、花粉の痒みを疎ましく思うのではなく、痛みを伴う重症のアレルギーでないことにまず感謝すべきなのだ。文頭で述べた「コミュニケーションの手続き」を省略しないのなら、双方の痛覚・あるいは不快感の捉え方をある程度予測して臨むのが、きっとスマートとされるのだろう。

余談だが、私が経験した痛覚のなかで最も強烈だったのは、肝生検だ。麻酔を打ってですらあの痛みである。刺されて死ぬのだけは絶対に嫌だと心から思ったし、刺殺事件の報道を見るたびに、沈黙の臓器が疼く。


 人に刺されぬような振る舞いをより強固にしていこう、と静かに誓う春。

みなさまも邪気の回らぬよう、ゆめゆめ。





Shine on you.


2025/02/26

先生なんかじゃない

  
 猫の里親になって2週間が経った。
 覚悟していた「ほんとうの親じゃないくせに!」ばりの拒絶は杞憂に終わり、仰向けでベッドの上を転げ回り、同じ時間に眠りに落ちている。よっぽど前の家での暮らしがちゃんとしていたのだろう。お育ちのいい子は、人間も動物も素直だ。捻くれていない。私のような屈折した人間は、こういった種族のイノセンスに惹かれる。私になかったものをはじめから持っているから。

 そして同じように、サブスクリプションコンテンツで宣言していた外科手術も、無事に成功した。
 この醜い世界では、見栄えを良くすると身分の扱いも正比例的に良くなるので、俗世間的な「幸せな暮らし」を享受するためには、健康な身体にメスを入れることはもはや必要悪ですらあると言える。見てくれを商売道具にしなくても済むような隠居生活にとっとと切り替えてしまいたいところだが、私にはまだすべきことがある。それを成し遂げるのが先か、膚が水を弾かなくなるのが先か。神のみぞ知る、といったところか。

 どんな話題でも言えることだが、諦めたものを犠牲だと思っているうちは、求るものがいくら手中に収まろうとも、その心は空虚なままだろう。
 例えば、私は猫を迎えるにあたり、趣味である香を諦めたが、かといってそれを欠乏だとも、ましてや犠牲を払ったとも思っていない。「これだけの犠牲を払ったのに、なにも報われない」ありがちなフレーズだが、あなたね、生贄で神の荒ぶりを鎮める儀式じゃないんだから。受動的恩着せがましさ、というか、与奪のセンスに恵まれていないなと、そういった台詞を耳にするたび、絶望的な気分になる。

 エイミー・ワインハウスという歌手を思い出す。
天然の温かいハスキーボイスで哀愁たっぷりに歌う彼女の歌唱は上手いだけではなく、聴き入ってしまう。若くして名声と富そして注目を得た彼女は、薬物の過剰摂取によって27歳でこの世を去ってしまったわけだが、彼女のドキュメンタリー映画を観ていて、「ああ、彼女がほんとうに欲しかったものは、お金でも有名になることでもなく、ましてや周囲が求める曲を歌い続けることでもなく、心を許せる人たちとの安らかな日々だったんだな」と、心に響くものがあった。流れとして外せぬ歌わねばならない曲と、自ら進んで選びバンドとアイコンタクトだけでやりとりして歌っている曲とで、聴こえ方がまるで違うからだ。
 大衆が彼女に求めたのは「無頼なユダヤ人の歌姫」という偶像だったが、彼女はそれに応えるために費やした労力を、犠牲であると、有限のものをすり減らしたと、感じてしまったのかも知れない。そこにある揺るがぬ歌声だけは、確かなリアリティとして今もなお、そしてこれからも、聴き継がれ色褪せないだろう。

 どんな人の心にも、空隙は存在する。
 私のような生業の者はそれを察知するのが得意、というか、それができなきゃ仕事にならない。善なる使い方をすればフィクサー、悪用すれば詐欺師という諸刃の剣。この能力を自分だけでなく他人にも使おうと決めたら、その瞬間から、毎日毎秒、己の良心と向き合わなくてはならない。それは占い師・術師としてのさだめであると甘受しているが、ときたま、趣味感覚でタロットカードや星占いを齧っている人から、私と同じ目線で話を展開されると、戸惑ってしまう。
 私に言わせれば、占い師など、他人の運命を覗き見て口出しして、剰えそれを操り改変まで試みるような卑しい身分である。占術をエンターテインメント的に利用するまで身を落としてはいないが、罷り間違っても「先生」などと呼ばれる立場ではない。私の役割は、占術の理論に則り相談者の願望を現実に反映させる下地を作ることであって、手品やイリュージョンのような目眩しではない。ゆえに、「すごーい!当たってるー」というような的中体験は、目的ではなく過程なのである。
  "当たる占い師"という宣伝文句があるけれども、占術理論的におかしいというか、ふつーにやってりゃ当たるのは当然なんです(笑)。だって具体的な戦略を練らねばならぬのはその次のステップなんだもん。手品ですらプレッジ・ターン・プレステージュと3段落ちがあるというのに!?タロットはカードめくって説明書読んで、星占いは太陽星座だけで合う合わない言って終わり!?飲み屋のつまみ話じゃん!!
こちとら、ン万もする書物読んで知識つけたり、大家の勉強会行って技盗んだりしてるのよ?ばっかみたい。

 私は、自分の仕事について密着ドキュメンタリーのように語るのは好きではないが、そういう人たちからカードの切り方やリーディングのコツなどを訊かれるたびに、素人さんのお戯れは楽しそうでおよろしいことざますね、と思いつつ回答していたらそれこそ、黙ってりゃいい気になって、己が特別な人間にでもなったかのように振る舞い始める人が散見されたので、「占いができる自分、に酔ってるうちは三流だし相手にも失礼になるよ」と忠告したら、疎遠になってしまった。まあ図星だったか、そして占術や相談者への向き合い方も、中学生のこっくりさんやティーン雑誌に載っている相性占いをキャッキャと眺める程度の感覚だったのかも知れない。私が「伝える形容詞ひとつ、助詞ひとつ間違えたら、この相談者に真意が伝わらないのではないか」などと気を揉んでいる横でそれをやられるのは、なかなかにもどかしいというか、やるならやるでプロらしく振る舞い、遊びなら遊びで一線を越えず弁えてほしいものである。

 と、たまにはと思ってピシャリと書いてみた。まあ、私も私でお人好しすぎるから付け込まれちゃうんだろう、その認識はある。
でも、私なりに真剣に取り組んでいることを、遊び感覚の人と同列にされるのは、さすがに失礼ではないか。マイクロアグレッション、自覚のない差別ってこういうことなんだろうなと思う。

 まあ、べつに私の目的とは関係ないことなのだが。気の良いもんではない。




Shine on you.

2025/02/12

眠れる獅子の徐派


 あらゆる邪気を振り切るため一切を事後報告とする、ということで、以下の文章は2月4日から前日にかけて記されたものであることを、予めご了承いただきたい。

 私とソーシャルメディアで繋がっている方々ならお分かりのことと思うが、去年一昨年あたりからずっと「猫を飼いたい」と発言してきた。去年からは特に猫種まで指定して、願いを口にしてきた。少々遠回りになったものの、それが叶う算段が整った。こういうあたり、私は腐っても魔術師である。

 もっと昔から私と繋がりのある方は、私が特定の名前を呼び続ける夢見を経験しているのをご存知のことだろう。
 さみしさに似た喜びに包まれた温かい場所で、愛すべきものの名を口にする自分の声。明確にその名が判明したのは去年の10月だが、その日の投稿はいまでも消さずに残している。今回、里親として迎えることになった猫の名であったからだ。その夢を見始めたのは、ちょうど新宿二丁目にバーを構えた時期なのだが、その猫は2016年生まれ。私の中で、点と点が線になっていくような感覚をおぼえた。夢は日に日に明瞭になり、その結末まで見届けてから覚醒するまでになった。

 予知夢なる概念を的中率という側面から語るならば、私は黙して堅固、なにも語らずこのさみしさに似た喜びの赴くがままに、生きるべきなのだろう。

 無自覚に人の士気を下げるというか、水を差して興醒めさせる類の人間がいる。
シラフとトランスの狭間で常に生き、それでいて飄々としている私のような人間にとって彼らは、「否定的な顕在意識」として機能するのだろう。本人たちの自覚の有無など知ったことではないが、傍から見ていれば「どうしてそうも他人の幸福を素直に喜べないのかねえ!?」と耳を疑ってしまうような言葉を、歓喜に火照った心へ冷や水を浴びせるかのように、言い放つ。往々にして彼らには「悪意」というものがない、いやそれ以前に、「言葉には感情が宿る」という概念をそもそも理解していない。おそらく脳の器質も関係しているのだろうが、「言葉を文字通りにしか解釈できない人たち」といったところか。平易に使いたくはないが、言霊と呼ばれるような考え方とは無縁なタイプ。そういう人間は、他人の顕在意識のダミーになりやすい。集団心理と呼ばれるものもその一種であろう。

 こんなことを言われた!腹が立つ!!なんて、我がサンクチュアリであるこのサイトで展開する気などないし、「人の気も知らないで(笑)」と俯瞰的に流せる程度にはオトナの対応とやらも身につけたつもりだ。えらいぞ、男33歳。
 怒りに繋がる前段階の「イラッ」で大抵の戯言は霧散していくのだが、私は知的好奇心から、「どうしてそういうことを言うの?」と相手を問い詰めて反応を見てみたくなる。私の愛を試したんだから、私だってあなたの思考回路を試しますよ、これでおあいこ。という、私の悪癖のひとつだ。どのみち、薄ぼんやりとした私の顕在意識の一面として刹那的に描画されている人格と向き合うのは、マインドフルネスのひとつの発展形としては、やっている内容は大して変わらないのだから、見知らぬ他人から私の知らない私を見出す瞬間には、心躍るものがある。しかしほとんどは、攻殻機動隊でいうところの「ゴーストハッキングされた者たち」でしかないから、投げかけるクエスチョンも、叩きつけるエクスクラメーションも、ただ虚に消えるのみだ。

 先述の通り、私を攻撃してくる際の彼らは、言葉が不自由である。どの類の不自由さかというと、文字は読めても行間が読めないタイプ。社交辞令を間に受けたり、ジョークが通じなかったりする人たちだ。「社会」という言葉に壮大なシステマティックを感じるのか、マクロの集合体を意識するのかといった解釈のずれはさておき、言外の意味に重きを置く日本語でやり合う舌戦において、彼らを相手にするのなら、かなり悲惨な末路を覚悟せねばならない。彼らは私と対峙する時だけそうなるのか、生来の、精神性の高い人へ依存する性質が言語感覚を鈍麻させていくのかは、正直知ったこっちゃないが、彼らの、無邪気に放つ一言が相手を失望させ、知らず知らずのうちに孤立していく様を見るのは、ある意味気の毒でもある。

 ひとりで踊る、醜い操り人形。

 これはあくまで自論だが、どんなに無神論や無宗教を自覚し強調する人にも、心の拠り所がある。それは美しく神聖に、その人の心の中へ根付いている。美徳(virtue)とでも言い換えるべきか。ネアンデルタール人より脳の小さい私たちホモ・サピエンスが生き残ったのは、この「美」の感覚が備わっていたからだといわれている。

 私は、信念をそっと支えてくれる人と、大義名分を盾にそれを挫こうとしてくる人の区別を明確に知った。ショックだったし、不安に苛まれて多少落ち込んだりもしていたが、実際、いま、現実世界の私は、ベッドでくつろぐ猫を横目にこの文章を入力している。私はこの猫に、果たされることのなかった愛情を注ぐのだろう。あの夢の結末を、頭の片隅に思い描きながら。


探していた温もり
静かに さみしさに似た喜びが 胸を打つ


獅子座の子と、獅子座の満月に。






















Shine on you.